かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2007年12月

深刻さの反対・・・笑、安心、くつろぎ そこに真理があります。 真理と言うと大げさに聞こえますが、あるがままの事実(リアリティー)のことです。 それはいつも目の前にあります。 いいも悪いもなく、ただ淡々と目の前に展開しています。 ... 続きを読む



深刻さの反対・・・笑、安心、くつろぎ


そこに真理があります。


真理と言うと大げさに聞こえますが、あるがままの事実(リアリティー)のことです。




それはいつも目の前にあります。

いいも悪いもなく、ただ淡々と目の前に展開しています。



僕たちは目の前のそれに自分の解釈を加え、「こうのようなことが起きた」という印象を経験として持ち運びます。


その記憶を連ねて「人生」と呼んでいるのです。

「人生」とは記憶の束のようなもの。

時間という幻想の中で組み立てた、自分本位のストーリーです。


それは頭の中に存在するだけで、リアリティーではありません。

それは「夢」のようなもの。

だから前世は「昨日見た夢」のようなものだと言い続けてきました。




リアリティーは時間を超えていて、ただ「いまここ」で変化し続けています。

僕たちの真の存在も「いまここ」で、時間を超えて存在し続けています。



それは決して死ぬこともなく、生まれることもなく、始まりもなく、終わりもなく、永遠に「いまここ」に存在し続けているのです。


その本性は、祝福であり、感謝であり、悦びであり、愛そのものです。

それが究極的なリアリティーです。



自分の本当の姿が、そんな途方もない幸福感そのものであったことを見抜くために、僕らの「人生」という夢の旅が計画されたのだと思います。



目覚めはもう目の前です。



あなたは、最初から救われています。

想像できる最大の祝福と栄光を最初から携えています。



目覚めはもう目の前です。





今年最後の記事に、何でも思ったことを書こうとして、何も考えずにただ自由に書いてみたら、こんな文章になってしまいました。



手直しせずに、このまま載せることにします。




出会ってくれてありがとう。


このご縁が、お互いのさらなる開花につながりますように。




2007年12月31日







PS

今夜10時から母家(866-5880)でカウントダウンライブやっています。

年越しそばもありますから、都合がついたら遊びにいてください。
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古今東西、これほど多くの瞑想法があるというのに、それが一般の僕たちに対して十分な功を奏してこなかったのは、瞑想に入る準備段階に対して手つかずで来たからだと考えています。 向和尚のような禅のエキスパートは、坐禅によって瞬時に瞑想状態(いまここの覚醒状 ... 続きを読む


古今東西、これほど多くの瞑想法があるというのに、それが一般の僕たちに対して十分な功を奏してこなかったのは、瞑想に入る準備段階に対して手つかずで来たからだと考えています。

向和尚のような禅のエキスパートは、坐禅によって瞬時に瞑想状態(いまここの覚醒状態)に入れますが、普通の生活を送る我々はそうはいきません。


多くの場合は、あれこれという心の会話に囚われ、長時間の足の痛みに耐えることが坐禅の経験になってしまうのです。

そんな状態を坐禅によって克服するには、数百時間、数千時間、ことによったらもっと長い時間を坐禅に費やさなければならず、それは現実的ではないですし、ほんのわずかな人間しか、その結果を享受することはできません。




僕たちが瞑想状態に入れない最大の理由は、僕たちが心の中に神経症を抱えているからです。


社会は人間を、一定の形にはめこんできました。

どのように生きるべきか、どのような人間になるべきか、その理想を押し付けることで、僕らは自分の存在のほんの一部しか認めずに、他の大部分を抑圧してきました

それを見事に抑圧し、社会が求める部分だけを発揮する人間を、「いい人」「よくできた人」と称賛してきたのです。


抑圧された部分はどこかに消え去ったわけではありません。


それはいつでも心の底に闇として渦巻き、日常の多くの場面に影響を与えています。


だから、あるがままの自分を受け入れようとしても、どうしていいかわからなくなってしまうのです。



「あるがままを受け入れなさい」

「自分自身を愛しなさい」


何度そう言われても、できない原因はそこにあります。



僕は新しい瞑想法を提案します。


それは分裂してしまった自己を再び本来の統一体にもどし、生き生きとした自分を取り戻すものです。


その感覚を復活させれば、瞑想はもっと単純なものになります。



何もせずに、深い安心感の中でリラックスした状態。

意識の断片が統一された状態。


これらは同じ状態です。

その状態を「瞑想」と呼ぶのです。



新しい年を迎えるにあたり、もうそろそろ、そんな実践的な段階にはいってもいい時がやってきたと思っています。




明日もこの続きを書かせてください。



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年末の忙しい時に、ここにきてくれてありがとうございます。 ここは、娑婆(しゃば)の世界がどういう状態であろうと、静かな自分に戻れる場でありたいと思っています。 今日はとても大切な話をしたいと思います。 心落ち着ける時間と場所を見つけて、読ん ... 続きを読む



年末の忙しい時に、ここにきてくれてありがとうございます。

ここは、娑婆(しゃば)の世界がどういう状態であろうと、静かな自分に戻れる場でありたいと思っています。


今日はとても大切な話をしたいと思います。

心落ち着ける時間と場所を見つけて、読んでみてください。




自分の周囲で何が起きていようと、そこに巻き込まれずに、そのすべてを観照しているような存在、それは真理に覚醒した不動の意識です。

禅の世界ではそれを、「不動心」、「主人公」、「無位(無為)の真人」などと、多くの言い方で呼びます。


それこそが瞑想で達せられる境地です。


覚醒した意識がすべてを観照している状態・・・それは行為ではありません。

それは僕たちの本性です。

存在の純粋性なのです。

すべての行為をやめて、深く深くリラックスして存在の中にくつろいだ時、それはあります。



だからある師はこのように伝えます。


「リラックスしなさい」

「くつろぎなさい」


それは完全に正しく、まったく異論はありませんが、でも僕たちには自分の意志でリラックスしたり完全にくつろぐことはできません。



もちろんある程度なら可能です。

いつもの騒々しい自分を沈静化させるくらいはできるでしょう。

それだけでも効果があるし、やってよかったと思う人もいますが、ここで伝えようとしているのは究極の体験です。


その究極に至らない限り、我々の苦しみは消えることはなく、何度鎮静化させても根っこが残っているので、それはまた繰り返されるのです。




さてそれでは、いかにして深いくつろぎの状態、何もしない状態(無為)に至るのか。

それが昨日の宿題でしたよね。



もったいぶるわけではないのですが、その前に僕の経験談を聞いてください。

そのほうが理解しやすいと思います。




あれは昭和60年3月のことでした。


その2年ほど前に初めて精神の深みに触れた僕は、すべての仕事を辞めて、毎日のように精神世界の本を読み漁り、聖地と呼ばれる場所を訪ねたりしていました。



ある夜、同じように精神世界にはまった仲間たちと、車座になってディスカッションをしていました。

10人くらいいたでしょうか。

それぞれが自分の意見を述べ合いました。


まだそのような人たちが少なかったので、そんな世界に興味を持つ自分たちを特別視していたと思います。


いま思えば一人ひとりが、自分が一番深く理解しているということを相手に印象づけようとしていたと思います。


みんなが心の底ではライバルであり、いかに自分が優れているかを言葉で表し、相手を論破しようとしていたのですから、それこそ精神の名を借りた新しい競争の場でした。


そのうち、その場がバカバカしくなってきました。

場を破壊したくなったのです。



仕事を辞めて、その世界に人生を懸けたのに、いったい自分は何をやっているんだろうという気持ちになったのです。



そこで考えました。

どうせなら今一番やりたいことをやってしまおう。


それは心の底に渦巻いている消化不良の思いや感情、ストレスや怒り、そんなものを全部吐き出してしまうことでした。


そこでいきなり輪の中央に進みました。


みんなが何が起きたのかと驚く中で、いきなり仰向けに横たわり、手足をバタバタさせて、幼子が駄々をこねるような感じで、言葉にならない声を発して大声で泣きわめき始めました。

一番見られたくない醜態を、一番見られたくない相手の前でやるのは、かなり勇気がいたと思いますが、きっと人生を懸けていたからできたのだと思います。



自分を制御せずに、やりたいように解放していきました。

まったくの狂気です。



でもその狂気をどこかで見つめている自分がいます。

そう、今思えばそれは意識的な狂気の解放だったんです。



周囲は唖然としていました。

そのうちリーダー格の一人が言いました。

「彼の前世のカルマが出たんだ」


でもそんな言葉はまったく僕に影響しませんでした。


僕には、狂ったようにのたうっている自分の姿も、それをどう解釈していいかわからない仲間の姿や心の中も、全部手に取るように見えたからです。


僕の外側は暴れていましたが、その内側の中心は、まったく静かなまま、すべてを理解していました。


僕はさらに続けました。

このまま呼吸が止まって死んでしまう、このまま疲れ果てて麻痺してしまう、そんな地点に至るまで、全身全霊を込めてのたうちまわったんです。


誰も僕を止められませんでした。


100%のエネルギーを発揮している存在を、理性で自分を抑制している人が止められるわけがありません。


その差は圧倒的です。


10分間くらい続いたでしょうか。

僕の声も体も限界に達しました。


出せるものはすべて出し切ってしまい、もうこれ以上の努力も緊張もできない地点に達していました。


行為は止まりました。


すると体と心が、急速に静けさの中に引きづり込まれていきました。


僕が何かをしているわけではありません。

それは起きているのです。


僕はただ、その現象を見守っている観照者です。


すべての怒り、すべての悲しみ、すべてのストレスを出し切ってしまった後の、完全な静寂が僕を包み込みました。


そしてそこで出会ったのです。


真実の自己と。



時間と空間を超えた、真実の存在が「いまここ」にありました。

それは圧倒的な存在で、感謝と悦びそのものでした。



一度それを見てしまえば、人生観も、生き方も、180度変わってしまいます。

もちろん全てが楽に好転し始めます。


もう自分一人で奮闘することはありません。

人生が神との共同作業になるのです。




誰もがその可能性を携えています。

そしてそれはいつも「いまここ」で起きるのです。




この話は初めてしましたが、僕の人生においてもっとも祝福された体験でした。


今年が終わる時になって、この話をあなたと分かち合えてよかったです。




ほんの少し先を歩む者として、あなたに伝えたいことがたくさんあります。


出会ってくれてありがとうございます。


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2007年も終わりに近づいてきた。 物質文明も過渡期を迎えて、これからの時代は、ますます心を重視した時代に入っていくだろうね。 その中で一番大きな役目を果たすのが瞑想だと思う。 でもわかっているようでわかっていない瞑想の真の姿。 今日も ... 続きを読む


2007年も終わりに近づいてきた。

物質文明も過渡期を迎えて、これからの時代は、ますます心を重視した時代に入っていくだろうね。


その中で一番大きな役目を果たすのが瞑想だと思う。


でもわかっているようでわかっていない瞑想の真の姿。


今日も瞑想について話をしようね。




瞑想とは、何もしないってこと。


何もしないことが瞑想だよ。

何かをしたら、その何かをしているということ自体が瞑想状態を妨げる。


なーんだ、何もしなきゃいいのかって、ところがそれが難しい。



僕らは何もしないではいられないんだ。

どのようにして何もしないでいるかと考えたとしたら、「どのようにして」という態度そのものが何かをしようとしていることを意味する。


したがってそれについては、何もできることがない。

何もせずに、何もしない状態に至らなくちゃならないんだ。



僕が何言っているかわかる?

言っている僕が混乱してきた(笑)



瞑想をするための環境を整えて、姿勢を正して、正式なやり方で瞑想を始めても、頭の中はゴチャゴチャと考え事が続き、思考という行為がますます盛んになり、なんとか思考を止めなきゃっていう意思(これも行為)が新しい思考を生んで、それが堂々巡りを始める。


外側からその人を見れば瞑想しているように見えるけど、実際にその人がやっているのは妄想だったりする。



目を閉じて静かに坐ると、頭の中の活動が活発になるのが普通だ。

あれこれと絶え間なく考え事が出てくる。

それは日々の生活の中の出来事を、完了されないまま持ち運んでいるからだ。

僕らの意識の中にはそんな未完了なガラクタがいっぱいに詰まっていて、それがいろんな思考となって現われてくるんだ。


それは神経症そのものだ。

僕らは程度の差こそあれ、みんな神経症にかかっている。

そんな状態から自分を救うためにも、瞑想はすごく大切なんだけど、神経症を治すために瞑想しようとしても、神経症が邪魔をして瞑想状態に入れない。



これが僕らが入り込んでしまうジレンマだよ。




それじゃ、どうする。


今日はすぐに答えを言うのをやめてみます。


さらっと読んでしまっても、何も残らないかもしれないから。




それでは問題です。

まったく何もしない状態に入るには、どうしたらいいでしょう。

もちろん眠ってしまってはダメだよ。


そのことを理解するのは、瞑想の本質を理解することになると思うので、じっくり考えてみてください。





年末年始も休まずブログを続ける予定です。


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あと一週間か・・・ 今年はどんな年だったかというと・・・けっこうブログを頑張った一年だった。 よく書いたよね。 仕事でもないのに、毎日午前中はブログを書くことに費やしてきた。 時間を自由に使える点で、僕は恵まれているんだろうけど、それにし ... 続きを読む



あと一週間か・・・


今年はどんな年だったかというと・・・けっこうブログを頑張った一年だった。

よく書いたよね。

仕事でもないのに、毎日午前中はブログを書くことに費やしてきた。

時間を自由に使える点で、僕は恵まれているんだろうけど、それにしてもよく続いたものだ。




なぜこんなに頑張って書いてきたのか自分でも理解できないけど、いま振り返ってみれば、このブログが果たしてくれた役割は大きかった。

新しい出会いもたくさんあったし・・・





文章を書くのが苦手な僕が、人生の中盤を過ぎて物書きみたいな生活になるとは夢にも思わなかったけど、もう少しこんな生活を続けてみよう。


そんなわけでこれからもよろしくお願いします。




今日は何も内容のあることを書けなかったけど、こんな日もあっていいよね。


これからも肩の力を抜いて、マイペースで楽しませてもらいます。



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瞑想について質問を受けたので、お答えします。 > 私の考える瞑想は「集中すること」だと思います。例えば、集中して音楽を聴き、音と音の区別を聞き分ける。こういった行為は自然と瞑想になると思います。 > つまり、瞑想とは何かに没我すること。そういう意 ... 続きを読む



瞑想について質問を受けたので、お答えします。


> 私の考える瞑想は「集中すること」だと思います。例えば、集中して音楽を聴き、音と音の区別を聞き分ける。こういった行為は自然と瞑想になると思います。

> つまり、瞑想とは何かに没我すること。そういう意味では我を忘れる行為(夢中)が瞑想とも言える…とも思っています。



一般的にこのように思っている人も多いみたいだけど、実際には正反対なのです。


瞑想は集中じゃない。

むしろ集中をやめることです。



集中というのは、特定の対象を決めてやっていくよね。

集中していないものに対しては無自覚になるでしょ。

瞑想とは、あらゆる対象(それはもはや対象とはいえない)に自覚をもたらしていくことです。



集中は心を狭めていくけど、瞑想は心を広げていく。

集中は選択の結果だけど、瞑想は無選択。



僕らは普段の生活の中で、何かしらに集中している。

何かを考えているときは、その考えに集中しているし、何かの行為をしている時はその行為に集中している。


生きるためにはそのような心の絞り込みは大切で、集中すればするほど成功率は高くなる。

それは実利的な生き方にとって大切な手段です。


だから僕たちは幼いころから、集中する生き方を学んでくる。

勉強とかスポーツとかでね。

そうやって社会で通用する人間になっていくんだけど、その傍らで大切な何かを失っているんだよ。


実利的な生き方は生存するには必要だけど、人生には生存以上の意味があるからね。




生きるために絞り込んだ意識を「顕在意識」っていう。

その際に捨ててきた部分が「潜在意識」。


この二つはいつも葛藤を起こしている。


顕在意識は、どのように生き残るかという観点から考えて、やりたくないこともやるし、思ってもいないことを言ったりする。
さらにはやりたいことを我慢したり、言いたいことを言わなかったりもする。

潜在意識は「嫌なものはイヤ」だし「やりたいことはやりたい」から、そこに葛藤が生まれる。


多くのストレスや情緒不安定は、この二つの意識の戦いによって生じるていると思う。



瞑想とは、集中の過程で捨て去ってきた「無意識」と呼ばれる部分を開花させること。

自分のすべてを全面的に受け入れることです。



それを許されて初めて、僕らの存在は大きな歓びを感じることができるんだ。

それまでは何を手に入れたって無理だよ。


だから瞑想ってのは、本当の歓びに向かう確実な手段だと思う。




修行なんかじゃない。

快感のための行為だよ。




悟りというと大げさだけど、快感と言えば身近でしょ?


そんなわけで瞑想を奨励しています。


ちょっと興味持ってくれましたか。


これからも瞑想については、さまざまな角度から解説していきます。



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ハッピークリスマス 今年もありったけの愛を贈ります。 今宵、あなたの胸が、やさしい気持ちで満たされますように。 何もないけれど、家族の健康と笑顔に囲まれています。 こんなに恵まれた国に生まれ、こんなに恵まれた夜を過ごしていることを、 ... 続きを読む


ハッピークリスマスハート


今年もありったけの愛を贈ります。


今宵、あなたの胸が、やさしい気持ちで満たされますように。




何もないけれど、家族の健康と笑顔に囲まれています。

こんなに恵まれた国に生まれ、こんなに恵まれた夜を過ごしていることを、心より感謝します。


この静かな幸福感を忘れずに生きていきます。




2007年12月24日

イブの日にプレゼント

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