かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2008年04月

僕たちは、自分で自覚している以上に人の目を気にして生きているようです。 人の目の中で生きていると言ってもいいかもしれません。 なぜ僕たちは、必要以上に他者の目(他者の評価)を気にしてしまうのでしょうか。 実は人の目というのは、僕たち ... 続きを読む
僕たちは、自分で自覚している以上に人の目を気にして生きているようです。

人の目の中で生きていると言ってもいいかもしれません。



なぜ僕たちは、必要以上に他者の目(他者の評価)を気にしてしまうのでしょうか。







実は人の目というのは、僕たちにとって、自分の存在にかかわる重要な意味を持っています。

その理由は、僕たちが今まで、人の目を通して自分自身を知ってきたからです。



それは物心つく前から始まっています。

たとえば赤ちゃんのころ、母親が自分を見ると嬉しそうな顔をしてくれました。

すると赤ん坊は無意識に、自分は人を喜ばせる力がある、自分は重要な存在だと感じます。


言葉を覚える前から、自分が何者かという情報を、他者の自分に対する態度によって確かめてきたのです。



反対に、無視されたり、馬鹿にされたりすると、自分の中には人よりも劣っている面があると信じてしまいます。


そうやって自己イメージを作り出してきました。


このやり方は、幼少期から思春期、青年期、そして大人になった今も、あいかわらず続いています。



こうやって客観的に見てみれば、他者の自分に対する態度は、あまり当てにならないのがわかります。


赤ん坊だった自分の前でいつも幸せそうにしていた母親は、もしその赤ん坊が自分でなくても、母親の子であるという事実があれば、同じように幸せな顔を見せたでしょう。


自分を無視したりバカにしたりした相手も、もしその相手が愛情豊かな人であれば、同じ自分に対して、もっと温かい反応をしてくれたことでしょう。

自分の価値が低いから馬鹿にされたのではなく、相手にそのような反応をする能力しかなかったから馬鹿にされたのです。



その時々に見せる相手の自分に対する態度や評価は、必ずしも自分を反映したものではなく、その相手自身のその時の「人となり」を表しているだけです。

ところが僕たちはそれを、自分自身を示す情報だと思ってしまったのです。


人はそれぞれが持つ価値観や判断基準、そしてその瞬間の気分によって、見たいように見ています。



それがわかると、少し楽に生きられます。

人がどう思おうと、自分は自分ですからね。






それからもうひとつ。

日本人は西洋人に比べて、人目を気にする傾向が強いと言われています。



それはおそらく、僕たちの中に農耕民族の血が流れているからではないでしょうか。

村内で共に協力しなければ生きてこれなかった現実の名残かもしれません。

ご近所様に変に思われたり、嫌われたりすることは、死活問題だったのでしょう。



村八分という言葉もありますよね。


ちなみに村八分とは、火事と葬式の二分以外は、いっさい無視するというものです。

火事と葬式も親切で関わるのではなく、火事は延焼して自分たちに被害が及ばないように、葬式は死体を放置して伝染病の原因にならないようにという、自分たちを守るために必要だったからです。



けっこう過激な仕打ちですよね。

そんな恐怖も刷り込まれているのかもしれませんね。




世間体を気にして生きるよりは、自分の心のままに生きたいものです。



こんなことを話している僕は、まったく人目を気にしないのかと言えばそうではありません。

やはり、人様の目を気にして生きている自分がいます。



あまり過度でなきゃ、それも必要かもしれませんね。

街を裸で歩くわけにもいかないし・・・




そんなこんなで、気楽にいきましょう。




今日のひとこと。

「人は見たいように見る」






何かを感じてくれた人は押してください。

   





沖縄で再び歌い出して丸7年が経ちます。

5月の2日3日は、母家で7周年記念コンサートをします。
会いに来てくださいね。

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こうして毎朝パソコンの前に坐り、何を書こうか考えています。 そして、何かひらめくと一気に書き上げます。 同じテーマがひらめいたとしても、書く時間が一時間違えば、文体も内容も微妙に違ってくるので、ブログの記事というのは、書く側にとってもまさに一期一会 ... 続きを読む
こうして毎朝パソコンの前に坐り、何を書こうか考えています。

そして、何かひらめくと一気に書き上げます。


同じテーマがひらめいたとしても、書く時間が一時間違えば、文体も内容も微妙に違ってくるので、ブログの記事というのは、書く側にとってもまさに一期一会の出会いです。





何気なく書いたつもりの記事が、特定の人にとって、まさに出会うべくして出会った記事で、その時の悩み事の解決につながったとか、タイムリーな情報だったというメールを頂くことがあります。


たとえば昨日も、「あなたは死なない」という記事を書きましたが、東京の親しい友人からメールをもらい、彼のお父様がその前日に亡くなられたのだそうです。

いつもこのブログを覗いてくれているようですが、わずかでも彼への力づけになれたとしたらよかったと思います。




一方でアドバイスもいただきます。


たとえば僕自身が長く生きてきて気づいたことを基にして、「自分の都合に固執することなく他者の幸せのために生きた時、自分の夢や希望が次々と叶いだす」ということの不思議を書きました。


するとある方からメールを頂き、自分を差し置いて他者のために生きることが、自己犠牲につながり、病気の原因になる人がいるとの指摘でした。


なるほど・・・僕のように「自分!自分!」で生きてきた人間には大きな気づきでも、反対に自分を出すことができずに、いつも他者を優先して生きてきたタイプの人にとっては、あてはまらないメッセージだったかもしれません。


むしろ、そのような人には、「もっと自分を大切に」という内容のほうが役にたったことでしょう。




いつでも誰にでも当てはまる普遍的なメッセージは少ないのかもしれません。

同じ言葉でもその時々で、必要としている人や、むしろそれが邪魔になる人、それぞれだと思います。



だから言葉を鵜呑みにすることなく、自分にとってどのような意味があるのかという観点から読むことが大切なのかもしれません。




いや、ちょっと待ってください。
今書いた「自分にとってどのような意味があるのか・・・・」という言葉さえも、人によっては、いつもそのように自分の中で文章を判断してしまうことで、作者が何を言おうとしているのかを取り逃がしてしまうタイプもいて、そのような人はむしろ自分をいったん空っぽにして、ありのままの内容を感じてみることが必要かもしれません。


何事も、信頼した分だけ受け取るからです。



あははニコニコ、文章というのは読み手の解釈に委ねるという宿命があるので限界がありますね。



そんなこんなを考えると、何も書けなくなってしまうので、今日も思いつくままつらつらと書きつづってみました。



こうした僕の毎朝の日課が、ほんのわずかでも誰かの心に響き、時には少しでも心が軽くなってくれたらと思います。


これからも心を込めて記事を書いていきたいと思っていますので、よろしくお願いします。





今日もここに来てくれてありがとうござました。







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PS

このブログと並行して書いている裏ブログの随(かんながら)神では、この数日間、「自我」に関するメッセージを、チベット仏教の観点から解説しています。
少し難解かもしれませんが、興味がある人は覗いてみてください。
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お知らせです。 9月16日と、9月23日の両日は、吉の浦会館が休館日のために、いまここ塾の会場が変わります。 那覇市西3-11-1  那覇市男女共同参画センター「てぃるる」 (866-9090) 19:00 開場 19:30 開演 ... 続きを読む
お知らせです。


9月16日と、9月23日の両日は、吉の浦会館が休館日のために、いまここ塾の会場が変わります。





那覇市西3-11-1 

那覇市男女共同参画センター「てぃるる」 (866-9090)


19:00 開場

19:30 開演


参加費 500円


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世の中は大型連休ですか。 我が家は毎年どこに行くでもなく、なんとなく連休を過ごしています。 子供もどこかへ連れて行けと言わないし、僕たちも出不精なので、この傾向は将来も変わらないと思います。 昔は旅行に行くのが好きでしたが、今は行ったその日に家 ... 続きを読む
世の中は大型連休ですか。


我が家は毎年どこに行くでもなく、なんとなく連休を過ごしています。

子供もどこかへ連れて行けと言わないし、僕たちも出不精なので、この傾向は将来も変わらないと思います。


昔は旅行に行くのが好きでしたが、今は行ったその日に家に帰りたくなってしまうのです。


だったら最初から家にいたほうがいいですよねニコニコ



さて今日もソクラテスの話をしましょう。

彼は西洋が生んだブッダです。



ブッダが西洋に生まれると、しばしば殺されてしまいます。

それは本当に突き抜けたブッダは、既存の権威をことごとく否定して、新しいビジョンを打ち立てるからです。

一神教の文化では、ブッダは神への冒涜者になってしまうのでしょう。







そんなソクラテスが死刑を宣告されて、投獄されたとき、彼は早く毒を飲みたがったそうです。


それは絶望感から自暴自棄になったのではなく、死への興味から早く体験したかったようなのです。




結局彼は、実際の期日より早く毒を飲んだそうなのですが、自分が死んで行く経緯を詳しく報告しています。


彼は自分を取り囲む弟子たちに、このように言ったと伝えられています。



「毒が私の体を蝕んできたのがわかる。
私の腕の感覚がなくなってきた。
腕はすでに私の一部ではない。
しかし私という存在は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「足の感覚が消えてきた。
もはや足は私の一部ではない。
しかし私という存在は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「目が見えなくなってきた。
私から光が奪い去られていく。
もはや何も見えなくなった。
しかし私自身は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「耳が聞こえなくなった。
音が私から消えてしまった。
すでに見ることも聞くこともできなくなっている。
しかし私自身は何一つ失われることなく『ここ』にいる」


「舌が痺れてきた。
これ以上話すのは不可能だ。
これが私の最後の言葉になるだろう。
毒は私の体をことごとく破壊していった。
しかし私という存在は何一つ失われることなく、いまも『ここ』にいる」



そして彼の体は完全に機能停止しました。

しかし彼と言う存在が、いまも『ここ』にいるのは、弟子のみんなに理解できたそうです。


痛みというものを、自分から切り離せる境地にまで達した彼だからこそできた離れ業ですね。





さて、もし僕が交通事故にあって、両手両足を切断してしまったとしても、僕自身は何も変わらずに僕自身だと思います。

同じように目が見えなくなっても、音が聞こえなくなっても、姿かたちがどんなに変わろうとも、僕は僕自身だと思います。



僕たちは身体を超えた存在なのです。


身体と心はワンセットだという話は以前にもしましたね。


身体の一番内側にあるやわらかい部分が心です。

心の一番外側の固い部分が身体です。


それは、心身という一つのものなのです。


したがって死ぬ時はその両方が消え去ります。



しかし、心身を使用していた自分自身、自分という存在はずっと『ここ』に残り続けます。

それが魂と呼ばれている存在で、魂は自空間を超えて存在するので、決して死ぬことはありません。




あなたが死ぬ時、いったい何が起きるのか。


その答えは「何も起こらない」です。




なぜならば、あなたは死なないからです。






今日もここに来てくれてありがとうございました。






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ソクラテスの有名な言葉。 「私が知っているのは、私が何も知らないということだけだ」 この言葉は、ソクラテスが謙遜して言ったのではなく、実際に何も知らないということを知ったという、まさにそのままの意味だと思います。 彼の足元にも及ばない僕たち ... 続きを読む


ソクラテスの有名な言葉。

「私が知っているのは、私が何も知らないということだけだ」


この言葉は、ソクラテスが謙遜して言ったのではなく、実際に何も知らないということを知ったという、まさにそのままの意味だと思います。


彼の足元にも及ばない僕たちが、まるで何かを知ったような顔して生きているのはまさに無明のなせる業です。


そんな僕たちは、実際には滑稽なほど愚かなのです。

愚か者が愚かなのは、自らの愚かさに気づかないところでしょう。




道端に咲いている花ひとつ取っても、花弁や茎や雌しべや雄しべなど、分解して名前をつけて、生態を観察して、さも知ったように思っていますが、その花が何故生きているのか、花を生かしている力は何なのか、誰も何も知りません。


この世は不思議に満ちています。

この世は奇跡に満ちています。



僕は人生の中で何度か「あーそうだったのか!!」という深い気づきがありました。

その気づきの中には、自分は何も知らないということも含まれていました。


何一つ知るはずもなく、そもそも言葉で表せるようなものは全部仮説に過ぎず、真実は到底言葉で表せないと感じました。


ところがまたこの小さな自分に戻ってみると、まるで何かを知ったかのようなつもりの自分がいて、この愚かさは救いようがないと思います。



自分が何も知らないということを常に自覚していられたら、今生かされていることに対して「おかげさまです」「ありがとうございます」と言えるんでしょうね。


宇宙のことも命のことも何も知らない僕たちが、知らないということを忘れて、わかったような顔して生きているのですから、人間は滑稽な生き物ですね。





最後に、関連するお話をひとつ。



国を代表する大学者でその国の大臣を務める男が、有名な聖者を訪ねました。

男はこの世の学問をすべて修め、知らないものはなかったのですが、唯一この聖者の持つ神秘的なムードだけは、十分に理解できないでいました。



男「聖者様、今日この私に、深遠な知識を授けて下さい。大いなる気づきを与えてください」


聖者「よろしい。それでは今から外に出て、黙って天を見上げてきなさい」



男は外に出ると天を仰ぎました。


しかしその日は悪天候で、強い雨が降っています。

天に向けた男の顔に、雨が容赦なく襲いかかりました。



それでも聖者の言いつけを守って、いつまでもいつまでも顔を上に向けていましたが、そのうち、こんなことに何の意味があるのだろうと疑問を持ち始めました。


そして部屋の中にいる聖者に大声で叫びました。

「いつまでやっていればいいんですか!」



すると聖者が言いました。

「何かに気づきましたかな?」



男「雨が顔にあたって、こんなことをしている自分が馬鹿に見えてきました」



聖者「おお、そうか、馬鹿に見えてきましたか。わずかな時間で一番大切なことに気づきましたな」




男「・・・」





今日の話はこれでおしまい。



素敵な日曜日をお過ごしください。





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この時間、今まさに聖火リレーが行われています。 おそらくこれから数日間のニュースは、長野の聖火リレーでの顛末が大きく取り上げられることでしょう。 いったい何のための、誰のためのイベントだったのかという思いが残ります。 このような情勢の中で ... 続きを読む


この時間、今まさに聖火リレーが行われています。


おそらくこれから数日間のニュースは、長野の聖火リレーでの顛末が大きく取り上げられることでしょう。

いったい何のための、誰のためのイベントだったのかという思いが残ります。



このような情勢の中で、この国がどんな意見を持っているのかさえも見えてこないのは何故でしょう。

お得意の事なかれ主義でしょうか。



僕が一番危惧するのは、聖火リレーのことに話題が集中し、その背景にある中国共産党による民族弾圧と、今現在も進行中の拷問や殺戮などの暴挙が見えなくなってしまうことです。

その本質を見失ってはいけないと思います。



中国政府がダライラマ側と対話の用意があると報道したそうですが、本当に問題を解決する意思があるのなら、まずはダライ・ラマが何度も要請しているように、「国際機関による実態調査」を受け入れるのが先です。

それをしないと、中国政府が何を言っても、何をやっても、国際世論を鎮静化させるためだけの対策に見えてしまいます。



僕が今日一番伝えたいのは、聖火リレーの騒動のことが問題なのではなく、中国のチベット弾圧こそが問題なのだということです。


実は今日も、まったく違う記事を書いていたのですが、こちらを載せることにしました。




まだメディアが問題を正確に報道する前から、このブログでは中国政府の実態を書き綴っていました。


そのころ複数の人たちから善意の警告を受けていました。

中には、実名で書くのは命が危ないからやめておくようにという忠告もありました。


でも、声を上げ続けてきてよかったと思います。

このささやかなブログが、何か現実に影響したとは思いませんが、それを書かなかったら、自分自身の生きざまとして納得がいかなかったからです。


何が真実なのか、どう生きるべきなのか、その追及を忘れてまで、ぬるま湯の中で生き残りたいとは思いません。



これからも馬鹿な独り言を綴っていこうと思います。



今日もここに来てくれてありがとうございました。






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僕たちは一日のほとんどの時間を、頭の中でゴチャゴチャと独り言を言ったり、何かを思い描いていたりして過ごしています。 しかもそのことを自覚しているわけではなく、無意識に次から次へと・・・ずっと・・・朝起きてから夜寝るまで・・・ずっと・・・ずっと・・・ ... 続きを読む
僕たちは一日のほとんどの時間を、頭の中でゴチャゴチャと独り言を言ったり、何かを思い描いていたりして過ごしています。

しかもそのことを自覚しているわけではなく、無意識に次から次へと・・・ずっと・・・朝起きてから夜寝るまで・・・ずっと・・・ずっと・・・


その思考の連続性にギャップを持たせてあげるのが瞑想です。

瞑想は頭の休息だと思えばわかりやすいと思います。



忙しく時間に追われていると、つい何事も効率よく処理しようとして、無駄な時間は極力避けたがるものです。

でも無駄に見える時間は、実はものすごく有用だったりします。


ほんのわずかな思考の休息でも、心身に与えるプラスの影響は大きいのです。


そのことがわかると坐禅の習慣が身に付いてきます。


でも多くの人は、なかなか始められないし、始めたとしても三日坊主で終わってしまいがちです。



そこで今日紹介するのは、日常の中で簡単に行える瞑想です。


椅子に座ってやるので、電車の中でも、オフィスでも、家の中でも、映画館(?)でも、どこでもできます。




まずは、椅子に深く腰掛けて、少しお尻を後ろに突き出したような感じで、ほんの少し前かがみになり、いったん背筋を後ろに反って伸ばします。

こうすると、背筋が伸びて気持ちがいいです。


次に、身体の力を抜いて、自然体でまっすぐに座ります。

顔はアゴを引いて真正面を向きます。



手は図のように、右手の4本の指を左手で軽く握り、左の親指の上から右の親指をかぶせます。



これは「白隠流」という手の形です。


そうやって握った両手を膝の上にのせます。



すると両手が、お臍の10cmくらい下にあります。

そこが丹田(たんでん)と呼ばれる位置で、腹式呼吸をする時の中心です。




顔は正面に向けた状態で、視線を1mくらい先に落とします。

すると眼が半分開いて、半分閉じた状態になり、それを半眼(はんがん)と呼びます。

多くの仏像がこのような眼をしているのでわかるでしょう。


少し慣れてくると、見ているようで見ていない状態になります。

それはとてもいい状態です。

なぜなら、目の前で起きている出来事と、自分の心との間に距離が生まれるからです。



そうやって、見るでもなく漠然と見ている状態にします。


これで姿勢は完成です。

この形ならば、電車の中ても変に思われません。




次は呼吸です。


この瞑想は呼吸の仕方に特徴があります。


息を吸うときに、足の裏の「土ふまず」から空気を吸い込むイメージをしてみます。

実際には鼻から吸っているのですが、足の裏から空気が入ってくるとイメージするのです。


その息は徐々に「ふくらはぎ」に上がり、膝を通って「太もも」に上がり、やがて下半身から丹田にたどり着きます。


その時、お腹をゴム風船のように膨らませると腹式呼吸になります。



いっぱいに吸い込んだら、いったん息を止めます。


そして、丹田からゆっくり吐き出しながらお腹をへこませていきます。



吐いた息は、さっきの逆で、下半身から「太もも」へ、さらには「ふくらはぎ」を通って、足の裏から外に出ていきます。

全部吐き出したらいったん止めます。

そしてまた足の裏から、ゆっくり息を吸い込んでいきます。



足の裏と丹田の間を、呼吸が行き来するのです。


吸う息も吐く息も、できるだけゆっくりにします。

一呼吸20~30秒間くらいかけるといいでしょう。



そうしている間にも、頭の中はゴチャゴチャと考え事をしていますが、それを無視して、足で呼吸しているイメージに専念してみるのです。


すると徐々に上半身のことを忘れていきます。




そんな呼吸を10分間くらい続けてみます。

もし可能なら、それ以上どれだけ長くても構いません。



そうやって意識を下に降ろすことで、心の安定にも健康にも大変効果があります。



やり方はわかりましたか?


本や新聞を読んだり、テレビを見たり、ぼんやり考え事をしていた時間に、この瞑想をやってみてください。


きっと、その効果に驚くと思いますよ。



健闘を祈っていますニコニコ






多くの人に届きますように、ご協力お願いします。

   

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