かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2008年05月

世の中を見ていて面白いのは、僕たちが自分勝手に世界をつくりあげ、それぞれが独自の世界の中で生きているのに、物質次元において、なんとか秩序を保っていることです。 それを成り立たせるには、最低限のルールが必要で、それさえ守ってもらえれば、たとえまったく違う ... 続きを読む
世の中を見ていて面白いのは、僕たちが自分勝手に世界をつくりあげ、それぞれが独自の世界の中で生きているのに、物質次元において、なんとか秩序を保っていることです。

それを成り立たせるには、最低限のルールが必要で、それさえ守ってもらえれば、たとえまったく違う世界観で生きている人同士も、共存できるわけです。

そのルールが、法律であり、倫理道徳なのだと思います。

いきなり人に襲いかかったり、傷つけるような言葉を使ったりしないということです。






僕たちは、個々それぞれが作り出している世界の中に、ひとりの出演者として登場します。

相手の世界の中で、自分という配役がどの程度の大きさなのかによって、相手の自分への接し方が変わってきます。


自分という人間は一人でも、ある人の世界にとっては準主役(主役は本人です)、ある人の世界にとってはエキストラといった具合です。

また、ある人の世界の中では善良な市民として、ある人の世界の中では油断ならない敵として、自分が出演しているかもしれません。


この場合興味深いのは、自分が何者かということを自分が決めているのではなく、相手が決めているということです。


もしあなたに100人の人間関係があれば、100通りのあなたが存在しているわけです。



作り出している世界観は人によって全然違うために、自分の期待を相手の世界の中で成就しようとしても無理があります。


おそらくお互いに一番いいのは、相手の世界に過度に干渉することではなく、相手の世界を邪魔しないようにすることだと思います。


何かアドバイスするときも、ひとつの例として遠まわしに伝え、相手の選択の自由を保障してあげるようなコミュニケーションがいいと思っています。



それは親しい仲、たとえば家族や子供に対しても同じで、親しさに甘んじることなく、相手は自分とまったく違う世界に住んでいるという認識を忘れてはいけないと思います。



「親だから」という力関係で、有無を言わさず自分の影響を与えようとすると、子供によっては深く傷つき、結果的に思いもよらぬ事態を引き起こす場合もあります。


子供に良かれと思ってやったことが裏目に出るのは、親が自分の世界観に固執してしまうからです。




「世界は人の数だけある」ということを忘れずにいたいものです。


そうすると、自分に対する人の評価も気にならなくなります。


賞賛されても、非難されても、それは自分自身が直接作り出しているのではなく、自分を見た人たちが、それぞれの世界観の中で作り出していることだからです。





「世界は人の数だけある」

この言葉を繰り返し深く理解してみましょう。


人間関係に対する新しい洞察が生まれてきます。






今日もここに来てくれてありがとうございました。



いい週末をお過ごしください。






多くの人に届きますように

   

このエントリーをはてなブックマークに追加

ここ数日、メッセージ色が強くなっていますが、今日もこの流れで行ってみます。 今日は、自分自身を受け入れるという観点から話してみます。 とても重要なことで、いままでも多くの人たちが異口同音に伝えてくれたのに、言葉を頭で理解しても、実際にそれができている ... 続きを読む
ここ数日、メッセージ色が強くなっていますが、今日もこの流れで行ってみます。

今日は、自分自身を受け入れるという観点から話してみます。

とても重要なことで、いままでも多くの人たちが異口同音に伝えてくれたのに、言葉を頭で理解しても、実際にそれができている人は少ないようです。







自分を批判しないこと。

自分を受け入れること。


こんな簡単なことができなくなってしまうのが人の世です。

僕たちは自覚しているか否かにかかわらず、朝から晩まで自分を批判していたりします。



なぜそんなに自分を批判するかわかりますか。

その理由の一つは、少しでも良い人間になって、多くの人に認められ、愛されたいという欲求があるからです。



「悟りの境地」とかいうと、何やらすごく難しい立派な世界に見えますが、実際にはあたりまえのあるがままの自分にくつろぐということです。

そこには何ら珍しさや特別さはありません。


ただあたりまえの自分です。


「他の誰か」に憧れるのではなく、自分のままでいることです。


その安らかさの中に、最初から与えられていた喜びが沸いてきます。




そんなあなたを誰一人知らないかもしれません。

友人も両親も家族さえも、誰ひとり本当のあなたを知らないかもしれません。


だってあなたは、ただあなたであり、素朴であり自然に生きているだけだからです。




カーテンの隙間から差し込む朝日を楽しみ、シャワーの感触を楽しみ、軽食を楽しみ、徒歩を楽しむ。

そこに何か特別なものがあるわけではありません。



自分が誰であろうと、ただ自分自身でいるのです。

人に自分をよく見せようとすることもなく、偽善もなく、ふりもせず、ただその時々の自分に誠実であろうとするのです。


そんなふうに自分にくつろいだ分だけ、喜びと祝福という顔をした「神」が自分に訪れます。




僕たちは、くつろぐことをもっと学ばなければいけません。


くつろぐためには、いまここに満足していることが必要です。

もし今に満足できなければ、そこを満たす何かが必要となり、その欲求、欲望が緊張を作って、くつろぐことを妨げるからです。



そして、結果を持たずに生きるのです。

「~であるべき」という結果を持つと、またそこに緊張が生まれます。




僕たちは幸せになりたいという思いゆえに、あれこれと現実を操作し、幸せをいまここから遠ざけているのです。


今ままでも、今も、そしてこれからも全ては完璧だという感覚を思い出してください。


その感覚こそが「神」です。



これからも何一つ無駄はなく、何一つ偶然もなく、起きることが起きていくでしょう。


その単純な事実に同調し、どこへでも流れのままに、思し召すまま流れていけば、それで完璧です。



あるがままの自分にくつろぐこと。

これはとても大切なことです。




中には、あるがままの自分がわからなくなったと言う人がいます。

長きにわたって人の目の中で生きてしまったので、何があるがままかわからないというのです。


でも実際には、どれが本当の自分かわからないと言って動揺している姿が、あるがままの自分です。


そんな自分を、そのまま受け入れてあげるのです。



何度も本で読んだでしょ?

「あるがままの自分を受け入れなさい」って。



後はやるだけですよ。






今日もここに来てくれてありがとうございました。






多くの人に届きますように

   

このエントリーをはてなブックマークに追加

昨日はたくさんの人たちと出会えていることが実感できて、とても嬉しく思いました。 コメントの中に、もっと読者を信頼して、思っていることを何でも書いたらいいという励ましもありました。 こんな言い方をしても伝わらないだろうなんて最初から決めつけないで、何で ... 続きを読む
昨日はたくさんの人たちと出会えていることが実感できて、とても嬉しく思いました。

コメントの中に、もっと読者を信頼して、思っていることを何でも書いたらいいという励ましもありました。

こんな言い方をしても伝わらないだろうなんて最初から決めつけないで、何でも書いてみようと思いました。



今日も「いまここ」について、ちょっと角度を変えて話してみます。





人は直線的にものを考えます。

今の自分のことも、朝起きて顔を洗って、通勤電車に乗ったらたまたま目の前の座席が空いて、すごくツイテいると思って坐ったら、うっかり眠ってしまって目的地を通り過ぎ、おかげで遅刻してしまい、しょんぼりしていたら好きな上司が力づけてくれて、いま私は元気を取り戻して職場で働いているといった感じです。

こうやって毎日真面目に働いていれば、きっとそのうちいいことがあるだろうと願っています。


それが直線的思考と呼ばれるものです。

そこには絶え間ない連続性があり、「自分」という存在が時の流れの中で、過去から未来に向かって生きているという感覚を持っています。


極めて多くの人がこのような生き方を選びます。




でも実際には、その一貫した時の流れを描いているのは自分であって、時は流れることなく、いつも「いま」でしかありません。


目の前の景色は常に変わり続けますが、僕らはそれをいつも「いまここ」で見ているだけで、僕らは少しも動いていないのです。


直線的思考はいつかどこかで幸せになろうと言いますが、「いつか」も「どこか」も空想上の産物で、実際には存在していません。


存在しているのは「いまここ」だけです。




「狭い日本、そんなに急いでどこに行く」

という言葉がありましたが、

「短い人生、そんなに急いでどこに行く」

ということです。


何度も言いますが、実はあなたはどこにも行っていません。

これからもどこにも行きません。


だって「いまここ」しかないのですから。



それがわかれば、自分は回り道をしたとか、人生を失敗したとか、遅れをとったとか、先に進んでいるとか、そんなバカなことは言わなくなります。




理解すべきもっとも重要なポイントは


「人生はどこへも向かっていない」

ということです。



まさに「いま」幸せであるかどうか・・・それが唯一のチェックポイントです。



まさに今、優しくて素直な気持ちを取り戻し、自分も周りも幸せであることを願いましょう。

まさに今、この瞬間には何ひとつ問題も悩みも存在していないことに気づいて、せめて「いま」だけは幸せな気持ちで過ごしましょう。



秘訣は考えないこと。

考えないで、ただ幸せを感じようとすることです。



それが無心の境地で、幸福感はそこに副産物のようにして湧き上がってきます。


その幸福感は、何かの原因の結果ではありません。




それは最初から僕たちに無条件に与えられている、100%の幸福感です。


それは僕たちの本質です。









今日もここに来てくれてありがとうございました。







多くの人に届きますように。

   

このエントリーをはてなブックマークに追加

自分が得た宝は、人と分かち合いたくなります。 しかもその宝が僕たちに共通のものであって、すべてのひとはそれを見つけるために生きているという確信があれば、なおさらです。 最初のうちは誰彼と見境なく話していましたが、そのうち、このような話は受け取る準備 ... 続きを読む
自分が得た宝は、人と分かち合いたくなります。

しかもその宝が僕たちに共通のものであって、すべてのひとはそれを見つけるために生きているという確信があれば、なおさらです。


最初のうちは誰彼と見境なく話していましたが、そのうち、このような話は受け取る準備ができた人にしか話せないし、話しても意味がないことがわかりました。


でも、聞く準備ができた相手をどのようにして探し出し、どのように見極めるのか。

それが長年のテーマでした。



それが一挙に解決されたのは、2年前です。

ブログという存在と出会ってからです。



これは見る側が、見るかどうかを決めることができます。

タイトルやキーワードを検索してくれれば、膨大な量のブログの中から、ここにたどり着くことができます。


僕にしてみれば、僕が伝えたいことにアンテナを立てた人と出会うことができます。


正確な人数まではわかりませんが、この2年間で、僕が一生かけても見つけることが出来ない数の人たちと出会えたことだけは事実です。



僕はここに自由にものを書くことができます。

公共の電波や公共の場では選んでしまう言葉も、ここでは自由な表現が可能です。




気づきには、その深さによって段階があります。

日々の生活の中でのちょっとした気づきから、宇宙全体に関わるような壮大な気づきまで様々です。


ここではその両方からお話してきました。

何を書くかを決めるのは、まさにこの瞬間の僕自身の状態ですが、それが毎日目まぐるしく変わるので、内容もバラエティーに富んでいます。






さて、いま僕は言葉にならない何かを伝えたくてウズウズしています。

それは説明がとても難しいのですが、もしそのことが伝われば、あなたが「人生」と呼んできたものはたちどころに消滅し、いまここにまったく新しい存在が出現します。

それは自由な感覚で、とてもポジティブな世界です。


そのためには、自分が作り出してきた人生観や世界観の、根柢の根底を見直さなくてはなりません。

それは、時間と空間、さらには自分という存在の再構築です。


こうして書いていてとてもじれったいのですが、今日のところはそのヒントだけを書いておきます。


もし僕を信頼してくれるのなら、一回か二回読んでわからないからといって投げ出さずに、何度も何度も思い出し、ことあるごとに感じてみてください。




「いまここ」という言葉はわかりますね。

この言葉の中には全ての真実が含まれています。

あらゆる物事はすべて、「いまここ」で起こっています。

しかも・・・過去のすべても、未来のすべても、起こりうるあらゆる可能性は、すでに「いまここ」に存在しているのです。


僕たちはそのあらゆる可能性の中から、個々それぞれにたった一つを選び出し、自分の経験として持ち運んでいます。

その瞬間何を選ぶのかはまったくの自由なのですが、人はすでに自分の生き方やスタイル、この世に関する一定の物の見方が出来上がっているので、同じような経験(感情や考え)を繰り返しています。


まさにこの瞬間、いまあなたがいる場所とあなた自身を、時間の流れの中ではなく、「いま」という断面で切り取って、あらゆるストーリーや説明をつけずに、そのありのままを見てとれるような視点が必要です。

そしてその断面に対する解釈を、つねに肯定的に描くことができれば、それが幸せというものです。


反対に否定(怖れ・不安・猜疑心)の世界で描けば、それが不幸ということです。


それは自分を取り巻いている条件や、現実と呼んでいる出来事や環境とも無関係です。


まさにこの瞬間の思考の方向性が幸・不幸を決めているのです。





やっぱり難解な表現になってしまいました。

でも今日はどうしても伝えたかったのです。


このブログの目的は、まったく新しい視点をあなたと分かち合い、それを理解する人が増えていくことです。


傲慢な言い方を許してもらえれば、その世界から見たら、霊だとか前世だとか次元上昇だとかはすべて子供だましの話です。

それを言っている人が作り出した世界観がそれを言わしているだけの話です。


僕がここで伝えたいのは、人が作り出した世界観ではなく、まさにあるがままのそれです。


「お前が言っているのもそのひとつだろう」と言われても、答えはNOです。

ダイレクトに伝えようとすると独断的に見えてしまいますが、これが真実です。



ブログは読む側が選べるので、僕が何か本当のことを伝えようとしていると感じた人は、これからもここに来てください。


僕には伝えたいことが無限の量だけあります。





今日もここに来てくれてありがとうございました。







このブログを支持してくれる人は2つのボタンを押してください。
このことが、また新しい人との縁を作り出してくれています。
ご協力よろしくお願いします。

   

このエントリーをはてなブックマークに追加

30歳の時に、自分の内側で、存在全体に対する突然の気づきがあって、それから人生観が180度変わった話は何度かしましたね。 その経験は人生で最大の喜びであり、天からの最高のプレゼントでした。 いまもなおその気づきは、少しも色あせることなく僕の中に息づい ... 続きを読む
30歳の時に、自分の内側で、存在全体に対する突然の気づきがあって、それから人生観が180度変わった話は何度かしましたね。

その経験は人生で最大の喜びであり、天からの最高のプレゼントでした。

いまもなおその気づきは、少しも色あせることなく僕の中に息づいています。



その経験によって、何か得たわけじゃありません。

むしろ多くのものを失いました。



何を失ったかというと・・・その代表が「劣等感」です。


人と自分を比較して、自分のほうが劣っているんじゃないかっていう「劣等感」。


若いころは、そんな感覚を強烈に持っていました。






特に、ギター片手に上京したころは大変でした。


子供のころにテレビで見ていた大都会東京。

そこに暮らす人は凄い人たちばかりで、自分のような田舎者はきっと笑われるに違いないと思っていました。

微妙に違う言葉のイントネーションも恥ずかしかったし、何より洋服のセンスが圧倒的に違うような気がしていました。


東京といっても広くて、山の手から下町までいろんな地区があって、今思えばそこまで劣等感を持つ必要もなかったのに、一度思い込んでしまったら、なかなか消えるものじゃありません。


原宿のブティックで服を買いたくても、その店に入ることさえできません。

店員に笑われそうな気がしたからです。


そこでどうしたか。

その店に入るための服をデパートで買って、それを着てやっと入ることができたのです(笑)



原宿のブティックで買った服は今でも覚えています。

それは当時流行りのグラムロックというジャンルの衣装です。


デビットボウイやT・REXなどが着ていたギンギラギンの服です。


青いラメのジャケット、サテンのパンツ、ビーズの刺繍をほどこしたTシャツ、10cmのロンドンブーツ・・・


そんな恰好で、西武池袋線に乗って石神井公園の自宅まで帰るのですから、劣等感の力は怖いもの知らずです。

今思えばそんな格好のほうがよほど恥ずかしかったと思いますが、当時はそれでやっと都会との釣り合いが取れたと思っていたわけです。



これらはほんの一例で、他にもまだまだ恥ずかしい行動があったと思います。

ちょっとした「勘違い」が人生に及ぼす影響は小さくないと思います。



勘違い・・そうです、あらゆる劣等感は100%勘違いです。

それは今よくわかります。



そもそも僕たちは根っこでひとつにつながっていて、その成分は「ひとつ」です。

僕たちは誰一人例外なく、同じものなのです。


表面的な見た目や印象によって、まったく違って見えますが、その奥にあるものは「ひとつ」という真実だけです。


そのことが深くわかると、劣等感はきれいさっぱり消えてなくなります。



この世に自分より凄い人は一人もいなくなります。

同時に、自分より劣った人も一人もいなくなります。


上も下も同時に消えてなくなるのです。


上と下は両方でセットなので、片方がなくなるともう片方も存在できないのです。

コインの裏表のようなもので、どちらか片方では存在できません。




劣等感を持っている人は、心の中で誰かを見下しています。

反対に、人に対して尊大な態度を持っている人は、自分より上だと思っている人に対してへつらったりします。


それはどちらも勘違いです。



僕たちに上下はありません。

魂は100%対等です。


対等という言葉さえも、正確じゃありません。


なぜなら、対等ということで、まだほんのわずか比較しているからです。

実際には比較そのものが存在しません。


だって「ひとつ」の同じものなのですから。



比較するためには最低でも二つ以上のものが必要です。


でも僕たちは「ひとつ」なのです。





今日もここに来てくれてありがとうございました。





多くの人に届きますように。
ご協力よろしくお願いします。

   




PS

7月6日(日)の秋葉原でのライブ&講演会は、満席のために夜の部を追加しました。


詳しくはこちらから。

http://abetoshiro.ti-da.net/e1503735.html
このエントリーをはてなブックマークに追加

このブログでは様々なメッセージをお伝えしていますが、聞いてくれる人が誰かによって、内容は変わると思います。 僕の話は、成人した人、特に30、40を過ぎた人たちが対象です。 時々、学校サイドから、中高生への講演を依頼されることがありますが、ここでお ... 続きを読む
このブログでは様々なメッセージをお伝えしていますが、聞いてくれる人が誰かによって、内容は変わると思います。

僕の話は、成人した人、特に30、40を過ぎた人たちが対象です。



時々、学校サイドから、中高生への講演を依頼されることがありますが、ここでお伝えしているようなことは話しません。


たとえば「あきらめる」ことの大切さや、天に「おまかせ」する生き方。

そんなことを受験前の子供たちに話しても、何の役にも立ちません。

彼らには、目の前の現実に全力で立ち向かうことが求められています。



メッセージには、段階があると思います。

子供たちのように、社会に依存して生きている状態には、まずは自立することの必要性を説きますし、自立して生きている大人たちには、相互依存への成長を説くことでしょう。


相互依存の状態、それこそがこのブログの目指す世界観です。





相互依存とは、自立した大人同士が共に与えあうことによって、競争原理よりもさらなる生産性をあげていくという意味もありますが、実はその奥にもっと大きな意味が含まれています。



それは神との相互依存です。



自立というのは、自分の力で人生をコントロールし切り開いていく段階ですが、これは時間とともに消耗し疲弊していく運命にあるのです。



世の中は自分の思いどおりには動いてくれませんし、「個」が「全体」に戦いを挑んでも、負けは見えています。

その段階を生き切って、自分の力の限界を認めることができたら、それは次なるステップへの入り口です。

うまくいかないとき、今までの自分のやり方が通用しなくなったとき、仕事や人間関係が極端に悪化したとき、絶望を感じたとき、これらは成長するのにまたとないチャンスなのです。


特に強い絶望感は、大いなる飛躍のチャンスだと思います。

なぜなら、とことん絶望すれば、簡単に自分のやり方を手放せるからです。



まだ自分の力に可能性を感じているうちは、時間がたってまた状況が変わりだすと、再び自立の段階を生きだします。

それが悪いわけではないのですが、その生き方がゴールではありません。


そして実に多くの人たちが、自立の段階で止まったまま、人生を終えてしまいます。



神との相互依存。


その言い方に抵抗がある人は「大いなる意識との相互依存」と考えればいいと思います。




この段階に入るためのキーワードは「手放す」「信頼する」です。


このブログでは、各所にわたって、そのことへの詳しい説明がされています。

きっとこれからも、その世界について、あれこれとお話しさせてもらうと思います。




神との相互依存。


この段階には、完全に自立した状態からしか入れません。

依存の状態からいきなり入ることはできないのです。


だから若いうちは、自分の可能性を信じて、とことん生きてみることが大切かと思います。



やれやれ、こんなことを話すということは、僕も年老いたということですね。


でも歳をとるのも、まんざら捨てたものじゃありませんよ。

だって、今が人生で一番幸せで、一番輝いているのですから。



人生は「これから」だって思っています。




今日もここに来てくれてありがとうございました。




年寄りの独り言は、これからもずっと続いていきます。






応援よろしくお願いします。

   
このエントリーをはてなブックマークに追加

毎度お騒がせしています。 今朝は、なんと11時まで寝てしまいました。 10時に近くのホテルで仕事の打ち合わせがあったのに・・・西原自動車の呉屋会長、お待たせして申し訳ありませんでしたm(_ _)m いつもはどんなに遅くまで寝ていても、隣の保育園 ... 続きを読む
毎度お騒がせしています。


今朝は、なんと11時まで寝てしまいました。

10時に近くのホテルで仕事の打ち合わせがあったのに・・・西原自動車の呉屋会長、お待たせして申し訳ありませんでしたm(_ _)m






いつもはどんなに遅くまで寝ていても、隣の保育園の子供たちの「先生オハヨー!みなさんオハヨー!」の声で起きるのに、今日は日曜日でした。


園児たちは完全に悟っていて、まったく人目を気にすることなく、100%の声であいさつするので、僕には最高の時報です。


山の中までブッダを探しに行かなくても、隣に数十人のブッダがいるので、重宝しています。



でも彼ら(園児)は、自分が悟っていることへの自覚がありません。、



おそらく僕たち人間は、ブッダとして生まれて、大人になるにつれていったん悟りを見失い、再びそれを獲得するために悪戦苦闘するのでしょう。


その結果得た悟りは、生まれつき持っていたものですが、今度は「自覚」が伴っています。



ということは、僕たちが人生で勝ち得るのは「自覚」なのかもしれません。

宇宙も同じで、もともとは宇宙と一体で歓喜そのものだった僕たちが、いったん、分離という幻想の中にはまり込み、その世界で苦しみながら再び宇宙との一体感と歓喜を取り戻すわけです。

でも苦しみの体験がある分だけ、歓喜はより深くなり、しかも歓喜しているという自覚まであるのです。



早くそんな境地を思い出したい今日この頃です。





みなさん、いい日曜日をお過ごしください。







ブッダの園児の頃に戻って、判断せずに無邪気に押してください。

   



ありがとうございました。
このエントリーをはてなブックマークに追加