かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2008年07月

仏教徒は釈迦のようになりたいと考え、キリスト教徒はキリストのようになりたいと考え、ヒンズー教徒はクリシュナのようになりたいと考えます。 釈迦もキリストもクリシュナも、光明を得た人たちですが、彼らは全然違うキャラを発揮しています。 釈迦は菩提 ... 続きを読む



仏教徒は釈迦のようになりたいと考え、キリスト教徒はキリストのようになりたいと考え、ヒンズー教徒はクリシュナのようになりたいと考えます。


釈迦もキリストもクリシュナも、光明を得た人たちですが、彼らは全然違うキャラを発揮しています。


釈迦は菩提樹の下で瞑想し、キリストは世界の罪を一身に引き受け愁いを帯び、クリシュナは笛を吹きながら笑い踊っています。




そんなところから宗教対立が起こります。


自分が信じる宗教こそが正しいと考える人々は、他宗の真実を理解することができません。



キリスト教徒は考えます。

この世には罪と不幸が蔓延しているのに、クリシュナはなぜ呑気に笛など吹いていられるのだ。

自分さえよければいい態度のどこが神聖なのだと。


一方でヒンズー教徒は考えます。

存在の頂点に達した人間が、なぜそんなに深刻そうな顔をしているのかと。

真理は祝祭であり喜びのはずなのに。




宗教によってなぜこんなにも違うのでしょうか。


答えは簡単です。

花開いた人(悟った人)たちは、誰ひとりとして同じではないからです。


それは個性の開花なのです。




悟ることで行きつく境地は同じです。

釈迦もキリストもクリシュナも、同じ真実に行き着いています。


でもその真実が、どのように発揮されるかは、個性によって全然違います。



あなたという人の開花は、宇宙が始まって以来初めての花なのです。


それは他の誰と比べる必要もありません。

いつだって開花は独自の開花なのです。



社会は烏合の衆を作り出します。

同じような服装、同じような態度、同じような習慣、そして同じような儀式儀礼を行います。

結婚式、葬式、正月、盆、クリスマス、人と同じようにやることで、安心を得たりもします。


神や仏の前では、同じように手を合わせ、頭を垂れますが、それは単なる慣習であって、そこに目覚めはありません。

ただ多くの人がやっているから、自分もそのように教えられたからという理由です。


そのような条件付けが、各所にわたって浸透しているのが社会です。

社会の一員になればなるほど、ますます個ではなくなっていきます。



宗教組織も同じです。

ルールがあり、やるべきことがあり、正しい拝み方があり、儀式があります。

そのような形式に従うことで、ますます自分ではないものになっていきます。

組織に疑問を感じても、疑問を持つ自分が不信心だと思いこまされて、やがては自分を失い、正しい信徒になっていくのです。



悟りは開花です。

あらゆる慣習、あらゆる理想、あらゆるモデルから自由になって、個として花開くことなのです。



釈迦は一人で十分です。

キリストもクリシュナも一人で十分です。


いくら真似ても、せいぜい偽物のブッダになるのが落ちです。


ところが僕たちは、本物の自分になれるのです


それこそが花開くと言うことなのです。




実は、僕たちは今あるがままの自分で、すでに悟っています。

すでに光明を得ています。


必要なのは、それを認め、宣言し、自分を生きることだけです。



あるがままの自分。

こんなに単純なことが難しくなってしまうくらい、僕たちは本当の自分を見失ってしまいました。



何かになろうとしないことです。

「なろう」を完全に落として「あろう」とすることです。




自分がどれくらい、自分ではないものになろうとしていたかを知ってください。


そこには、深いところでの自己否定があります。


それこそが、あなたの開花を妨げている元凶です。



あなたはあなたのままでパーフェクトなんです。


このあたりまえな自分が?

そう、そのあたりまえさを受け入れることが早道です。


特別な存在になろうとしないことです。

それらはみな、トリックなのですから。





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今日も愛について書いてみます。 あまり人がテーマに選ばないことをテーマにしてみます。 それはズバリ、セックスについてです。 昨日、愛は特定の対象へのものではないと言いました。 それは真実です。 愛とは行為ではなく、存在だからです。 ... 続きを読む
今日も愛について書いてみます。

あまり人がテーマに選ばないことをテーマにしてみます。

それはズバリ、セックスについてです。






昨日、愛は特定の対象へのものではないと言いました。

それは真実です。


愛とは行為ではなく、存在だからです。


もし愛が行為だとしたら、対象(相手)が必要になります。


でも愛が存在そのものだとしたら、それは普遍的なものとなります。

ちょうど太陽が、対象を定めずにあらゆるものを照らすのと同じです。


それが本当の愛の姿です。



でも僕たちは、いきなりその境地に達することはできません。

まずは肉体的な次元、セックス、情欲というものが入口になります。


そこに溺れることなく、それを瞑想的に通り抜けた時、高いレベルでの愛の一瞥が起こります。


そこでは、自分が消え、相手が消え、ただひとつなる永遠の境地に達するのです。



僕たちはセックスを通して、情欲を通して悟ることができるのです。

タントラという伝統は、そんな考え方に基づいています。


しかし世界中の多くの宗教はセックスに敵対し、セックスを否定してきました。


たとえばキリスト教です。

キリストは処女から生まれたことにされてしまいました。


マリアという女性は、類まれな純粋な精神の持ち主だったと思います。

しかし、彼女が自然の摂理を無視して、子供を宿すなどということはありません。


そこには、そのような話を考案した者たちの性に対する恐れと誤解があったように思います。



この世の森羅万象を見てみると、あらゆる生命が性的な仕組みでできていることがわかります。

ということはそこに神の意志があるということです。

この世の仕組みの全てが神聖であることを認めることが、真実の道を歩む第一歩です。



情欲を否定してはいけません。

そのような衝動が湧いた時、自分の精神性が低いからだなどと思わないことです。


それはちょうど、ハスの花が泥水から生まれ育つのと同じです。

情欲は泥水で、愛はハスの花です。

でも泥水なくしては、ハスも育つことはできないのです。



悟るためと言いながら、性の衝動を抑圧していれば、それは無意識の中に重荷として持ち運ぶことになります。

自然と闘っても勝ち目はありません。


性を抑圧し続けた人が、最後に見るのはセックスの夢だそうです。

それは断食で死ぬ間際に見る夢が、食べ物の夢だということと同じです。



その抑圧された衝動は、次の生にも影響することでしょう。

その抑圧を解消する、一番適した命に転生するかもしれません。




今日の最後に小噺をひとつニコニコ



阿部さんと梅田さんは、とても真面目な仏教の修行僧で、2人とも僧院の戒律をよく守り、性的な衝動は完全に抑圧していました。


2人は親友同士だったので、もしどちらかが先に死んだら、死んだ先の世界を残った者に報告しようという約束をしていました。


2人は死後の極楽浄土を信じていたのです。


1年後に阿部さんが先に死にました。


それから何年も過ぎたある日の夜明け前のこと。


梅田さんの耳元に阿部さんの声がしました。


「梅ちゃん、梅ちゃん」


「あっ、もしかして阿部さん?」


「そうだよ、約束通り報告に戻ってきたよ」


「ずっと待ってましたよ。今阿部さんはどんな所にいるんですか?」


「僕の生活はね、朝食をとってすぐにセックスするんだ。そして昼食をとってまたすぐにセックスするんだ。そして夕食をとってまたすぐにセックスするんだよ。しかも相手は毎回違うときている」


「へえ、それが極楽浄土なんですか。いいなあ」


「極楽浄土?僕はね、いま北海道に住んでいるんだ。僕はいま種馬だよ」




性の衝動を抑圧しすぎてはいけません。

それも神が与えた贈り物だからです。


不自然な強制をすることなく、情欲の中に入っていけばいいのです。

ただし溺れないこと。


瞑想的な注意力を持って、情欲を愛に変容させるのです。



セックスは、本当の愛に至る大いなる道なのですから。






今日もここに来てくれてありがとうございました。






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今日は「愛」について書いてみたいと思います。 でもうまく書けないかもしれません。 愛は論理ではなく、感じることだからです。 僕たちはあまりにも論理に慣れ親しんでいます。 教育によって、知性は訓練され磨かれてきましたが、ハートは等閑(なお ... 続きを読む



今日は「愛」について書いてみたいと思います。

でもうまく書けないかもしれません。

愛は論理ではなく、感じることだからです。



僕たちはあまりにも論理に慣れ親しんでいます。

教育によって、知性は訓練され磨かれてきましたが、ハートは等閑(なおざり)のままです。


そのハートの能力が開発されて初めて、愛の何たるかを知ることができるのです。



人は計算なら上手にできます。

でも愛は計算ではありません。


人はなんでも論理で証明しようとします。

でも愛は論理ではありません。


むしろ愛は非論理的であり、常識を超えた、狂気に近い、自由にあふれ出る喜びのエネルギーです。


だから昔から、悟った人は狂ったように笑ったり、踊ったり、常識はずれの行動をとるのです。

その時の彼は、まさに愛の中にいます。

まさに神の中にいるのです。




ここで話している「愛」とは、恋人や子供やその他特定の対象に向けての愛ではありません。


存在としての愛です。


他の言葉で言えば、「見性」、「真理」、「神」、という言葉が同義語です。




またちょっと違う角度から見てみましょう。


この世の価値観は、「すること」を大切にしています。

いかに効率よく、物事を正確にやってのけるか、それが人間の優秀性だと思っています。

でも、愛とは「すること」ではなく、「在ること」なのです。



そしてもうひとつ、社会の価値観は「所有すること」を大切にします。

いかに得るか。

そして多くを得た人が社会で尊敬され憧れの対象となります。


しかし、お金や物なら所有できますが、愛は所有できません。


そして「愛」がないかぎり、人は人生に意味を感じないのです。


いくらお金があっても、多くのものに囲まれていても、そこに意味を見いだすことができません。

そこで、もっと多くを得ようとするのですが、どこまで行っても同じことです。



愛は所有することによっては得られないのです。



愛は所有されることによって得ることができます。


と言っても誰かに所有されることではありません。

存在に、神に、全体に所有されることです。


それを「サレンダー」「帰依」「明け渡し」と言います。


それは大いなるエネルギーに乗っ取られることです。


その時、自分の中で何かが爆発します。


自分の中にこれほどダイナミックな、そして歓喜にあふれたエネルギーが眠っていたのかと驚きます。


その時、それまで自分だと思っていたものが消滅します。


そしてまったく違うレベルの、とてつもないエネルギーに満たされます。


それが「愛」です。


またの名を「神」と言います。



「神は愛なり」


これもキリスト教の言葉ですが、真実をついた言葉は、あまりにもシンプルですね。




うまく伝わってくれましたか?

「愛」は最も大切なものなので、自分なりにもっと工夫して、これからも様々な表現を試みてみようと思います。





今日もここに来てくれてありがとうございました。






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先日、母の米寿記念のコンサートに、ニューヨークから従姉がお祝いに来てくれました。 彼女はクリスチャンなのですが、敬愛する牧師さんの言葉で、ひとつだけ違和感を持っていた言葉があったそうです。 それは「神は人類を救うためにこの世に現れた」という言葉です ... 続きを読む
先日、母の米寿記念のコンサートに、ニューヨークから従姉がお祝いに来てくれました。

彼女はクリスチャンなのですが、敬愛する牧師さんの言葉で、ひとつだけ違和感を持っていた言葉があったそうです。


それは「神は人類を救うためにこの世に現れた」という言葉です。


何に違和感を持ったかというと、何故人類だけを救いに来たのか、何故他の生き物、動物たちは救わないのか、それはおかしいと思ったそうです。





それが、ふとあることに気づいたと言っていました。


もしかしたら、他の生き物は全部神と共にあって、人間だけが神から離れてしまったのではないか。


人間は大脳皮質の発達で「考える」力を持ち、知識を蓄え、物事を判断し、本来そうであるところのあるがままの存在から離れてしまったのではないか。

そのことが、知識の実を食べてエデンの園から追放されたという寓話になっているのではないか。


人間以外の生き物は、まだ知識の実を食べていないので、いまだにエデンの園にいて、したがって迷っていないから救う必要がないのではないか。


そう思ったとき、ふと腑に落ちたそうです。

僕もそれを聞いて、なるほどと思いました。




「考える」という行為が、あらゆる精神的苦しみのもとになっています。

今が幸せだとしても、この幸せを将来にわたって保証しようとするところから、ありもしない不安を作り出すのが人間です。



絶え間ない比較や判断、終わってしまったことの後悔や、未来への不安。


これらはみな「考える」ことから生まれます。


そうして作られた苦しみを、「考える」ことで解決しようとし、さらに苦しみを複雑にします。

なぜなら「考える」こと自体が、苦しみのもとだからです。



本当は「いまここ」にすべてが揃っていて、一切の過去未来を持ち込まなければいいだけの話です。



エデンの園から追放され、苦しみの世界で迷った人間は、せめてこの苦しみの意味を知りたいと願います。


何故生きているのか、こうして苦しむ理由は何なのか。




そんな我々を救うのは真理しかありません。

その真理をキリストは伝えにきたというわけです。


「疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。

わたしがあなたがたを休ませてあげます。」


(マタイ11章28節)





牧師さんが言いました

「神は人類を救うためにこの世に現れた」


この言葉は真実です。

もっと言えば、神は人類を救うために現れたのではなく、もともと救われていることを教えるために、この世に現れたのです。



あらゆる動物と同じように、いやそれ以上に僕たちは救われているのです。



「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。

けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。

あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

あなたがたが心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」


(マタイ6章25~27節)




僕たちが神の懐(ふところ)から離れてしまったのは、再び神を見出して、その歓喜を自覚するためです。

もともと歓喜の中にいるのですが、それを認識するには、そうでない状態が必要なのです。

だから僕たちは知識の実を食べて、エデンの園からいったん追放された形をとったのです。

それが苦しみの意味です。




想像を超えた歓喜、愛、感謝、開放感、自由、安心、・・・これらが僕たちの宿命です。


誰一人例外なく、必ず帰りつきます。

このゲームに失敗はあり得ません。


「大丈夫」


もしまた迷ったら、この言葉を思い出してくださいね。

命をかけて、この言葉が真実だと宣言します。





今日もここに来てくれてありがとうございました。





多くの人に届きますように。

   



PS

明日は予定どおり、中城で「いまここ塾」があります。

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先日、天河に行ってきました。 ちょっとその感想を書きます。 天河については、<かんながらの物語>の舞台にもさせてもらっていて、僕の心のふる里です。 今回は何年ぶりかの訪問でした。 60年に一度御開帳するという秘仏を見るのが目的でした。 ... 続きを読む
先日、天河に行ってきました。

ちょっとその感想を書きます。





天河については、<かんながらの物語>の舞台にもさせてもらっていて、僕の心のふる里です。

今回は何年ぶりかの訪問でした。


60年に一度御開帳するという秘仏を見るのが目的でした。


多くの人たちで賑わっていました。



勇気を持って本当のことを書きますが、実は今回は何も感じるものがありませんでした。

ただ人ごみの中で、様々な波動が交錯し、まるで万博の月の石を並んで見たような感覚でした。

神前で対応する神主の尊大な態度や、列に割り込む人と並んでいる人の口論や、単に社会の縮図を見に山奥まで行ってきたような経験でした。



秘仏は想像を超えたお姿でしたが、僕自身が感じたのは、こういうものが神ではないということです。

歴史的な価値はありますが、それ以上のものではありません。

こういうものをありがたがっているうちはダメだというのが、僕の感想でした。

生意気言ってスミマセン。




僕たちは自分の外側に、シンボリックな何かを求めますが、やはり自分自身の中に全ての神秘があると思います。

いつもなら、ありがたい想いが先行して、自分の体験を美化したと思いますが、今回このような感想を持ったことで、自分自身がこの数年間でずいぶんと変化したことがわかりました。


だからと言って、神に生かされているという感覚がなくなったのではありません。

平成元年7月に、誰もいない天河の神殿に額ずき、「この命を自由に使ってください」と祈願した気持ちに、何一つ変わりはありません。


これからも<かんながら>の風に乗って生きていくことでしょう。




たった数時間いただけでしたが、多くの人から声をかけられました。

「阿部さんですよね。実はあなたのブログを読んでここに来ました」


本当に多くの人から、しかも日本全国から来たという人たちから声をかけられびっくりしました。


僕の経験はその程度のものでしたが、遠路はるばる参拝された方たちにとってはどのようなものだったでしょうか。

それぞれに何らかの意味があったものと思います。


皆さんとお会いできたのは、何よりの事でした。





そうそう、最近嬉しいことがありました。


能登の七尾市の方からメールをいただき、僕を講演に呼ぶにはどうしたらいいかという問い合わせでした。

実際、条件など何もないし、人が集まってくれるならどこにでも行く旨を伝えたら、すぐに事が成立しました。

8月30日に行ってきます。

詳細はまた改めてご紹介します。



起きることはこのようにして、何の障害もなく、想像を超えたスピード感で起きていきます。


実は沖縄に暮らすことになった経緯も似たようなものでした。


お任せすれば、ことは自然に展開していくというのが、僕の人生観です。



これが「風」だと思っています。

これからも風が吹くままに生きていきます。





今日もここに来てくれてありがとうござました。






多くの人に届きますように

   

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時々聞かれます。 「死ぬ時は何が起きるんですか?」 すると僕は答えます。 「なにも起きませんよ。だって死なないんだから」 時空を超えた境地を一瞬でもかいま見れば、二度と同じ人ではいられません。 人生観が根底から変わってしまいます。 ... 続きを読む
時々聞かれます。

「死ぬ時は何が起きるんですか?」

すると僕は答えます。

「なにも起きませんよ。だって死なないんだから」





時空を超えた境地を一瞬でもかいま見れば、二度と同じ人ではいられません。

人生観が根底から変わってしまいます。


その結果、何か得るのではなく、むしろ多くを失います。


失うものの代表は

不安、心配、劣等感、罪悪感、虚栄心などです。



人生はどこにも行きつかないし、今までだってどこにも行っていないし、いつも「いまここ」で神の懐の中で守られながら、絶え間ない夢を見ていただけだと知ります。

目に見える世界は変化し続けて、身体もやがては朽ちて死んでいくけれど、それは古くなった服を脱ぎ捨てるだけで、自分自身は何一つ変わることなく、「いまここ」にあり続けることを知ります。

これらのことから、心配と不安が消えてなくなります。



さらには、自分自身だと思っていたものは万物の中に住んでいて、あらゆる人は自分と同じ成分でできていて、この世には自分より優れた人も劣った人もいないのだと知るので、劣等感が消え失せます。



さらには、この世で起きたことは、ただ単にそのように起きたのであって、深い次元ではそれを行った人は存在せず、「本当の自分」は何一つやっていなかったことを知るので、罪悪感が消えてなくなります。



さらには、無知の中で生きていた時は、人の目に映る自分を演じていただけで、その演技を一番興味深くチェックしていたのも自分自身だとわかり、一人相撲の馬鹿馬鹿しさを知るところから、虚栄心が消えてなくなります。



こうして多くのものが消え去りますが、その中でも一番大きなものは「死の恐怖」がなくなることかもしれません。


自分が一度も生まれたこともなく、一度も死んだこともなく、ただ永遠の今の中に存在し続ける「光」なのだと知ることは、大いなる救いです。


あとはその時その時、自分の心のままに生きていれば、そして結果の全てを天にお任せしていれば、それでいいのです。


その後もあいかわらず夢は続いていきますが、先行きどうなってしまうのかという不安がないのは、とても気楽です。




そのような境地にいたる道は二つあります。


ひとつは、自分自身が至高体験をすること。


もう一つは、昔から多くの覚者達が繰り返し伝えてきた至高体験を、鵜呑みにして信じ込むことです。

それが信仰心と呼ばれるものです。


「信じるものは救われる」のです。




人類規模で夢から覚める時が近づいていると言われています。

僕もそんな予感を持っています。



このようなブログに惹きつけられるあなたも、目覚めが近いということです。




今日もここに来てくれてありがとうございました。





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人から自分を非難されるのは辛いものですよね。 僕たちはそうならないようにと、他者の目をうかがいながら、なるべく安全で無難な行動をとろうとします。 少しでもいい人を演じ、自分の内なる声を無視して、周囲に合わせた生き方を始めてしまうのです。 結婚や、 ... 続きを読む
人から自分を非難されるのは辛いものですよね。

僕たちはそうならないようにと、他者の目をうかがいながら、なるべく安全で無難な行動をとろうとします。

少しでもいい人を演じ、自分の内なる声を無視して、周囲に合わせた生き方を始めてしまうのです。


結婚や、離婚や、職業の選択や、小さな意見でさえ、自分の本当の声ではなく、人の評価を基準に決められたりもします。


しかし、人の非難や称賛とはいったい何でしょうか。


非難したその人は、あなたの何を知っているというのでしょう。

あなた自身でさえ自分のことがわからないのに、他者にわかるわけがありません。


他者が知っているのは、その人の中にある自分の価値観です。

あなたのその瞬間の行動が、相手の価値観に合っていれば褒められ、外れていれば非難されます。


したがって他者の自分に対する評価は、自分自身のことではなく、その相手の心の中の反応にすぎないのです。


それを徹底的に理解できれば、人の評価に一喜一憂することがなくなり、真に自分自身を生きることができます。



この世の出来事は表面的なことばかりであり、自分の最奥にある本当の自己は不動のまま「いまここ」にあり続けます。

それが瞑想によって達成できる不動心です。


僕はまだその域に達していませんが、その香りだけはわかるようになりました。





今日は、とある禅僧にまつわる話を紹介しましょう。

不動なるものを達成した人がどのようであるのか、象徴的なエピソードです。



その彼は村で評判の聖者でした。

しかも見た目にも美しく、多くの人の礼拝の対象になり、彼のためにお堂が築かれ、毎日のように供え物が届けられました。


そんなある日、村の長者の娘が身ごもってしまいました。

いくら尋ねても決して相手の名を明かしません。


怒った娘の父親は、娘を座敷牢に閉じ込め、ろくな食事も与えずに、毎日のように責め立てました。


そのあまりの辛さに、ついに娘は相手の名を告げました。

それはなんと、あの美しい禅僧だったのです。


その噂はあっという間に村中に広がりました。

村人たちは騙されたと言って、お堂を取り壊してしまいました。

もちろん供え物も途絶えました。


口々に詐欺師呼ばわりされたその禅僧は何一つ言い訳をしませんでした。


やがて子供が生まれると、長者はその赤ん坊を娘から引き離し、路上で暮らしていた禅僧に押し付けて言いました。

「お前の子なんだから、お前が育てろ」


禅僧はただ一言「わかりました」と言うと、赤ん坊を抱いて村の家々を回りながら、ミルクの施しを求めました。

「私のことはかまいません。この子に何か飲ませてあげてください」

しかし村人はみんな無視をして、誰ひとり助けてはくれません。

それどころか、窓越しに口汚く罵るばかりです。


どの家でも同じような扱いを受けた彼は、空腹で泣き叫ぶ赤ん坊を抱いて長者の家の前に立ちました。


赤ん坊の泣き声が娘の耳に届きました。

すると娘は泣き崩れながら本当のことを告白しました。


「父親はあの人ではありません。隣村の○○さんです」


それは長者とは商売敵の息子で、絶対に会ってはならないと決められた相手でした。



それを隠すために、僧の名を語ったのです。



その話も瞬く間に村中に知れ渡り、またしても僧に対する評価が一変しました。

村人たちは彼の足もとにひれ伏して許しを請いました。

長者も赤ん坊を引き取ると、無礼の数々を深く詫びました。


すると聖者は一言こう言いました。

「わかりました」


外側で何が起きていても、彼は何一つ変わることなく、ただ最善を尽くそうとしたのです。



人の評価は外側の現象に対するものです。

ある時はあなたを称賛し、ある時はあなたを非難しますが、どちらも本当のあなたに対して言っているのではありません。


時間と共に過ぎ去る束の間の現象が、人々の評価の対象です。

本当のあなたは、その向こう側に、時間を超えた不変なるものとして存在しているのです。



自分もそんな人でありたいと思います。




今日もここに来てくれてありがとうございました。





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