かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2008年09月

心というものは、ある特徴を持っています それは、同じような考え方を繰り返していると、いつの間にかそのような心になっていくというものです。 皮肉っぽく考えがちな人は、以前からそのような考え方を繰り返してきた結果ですし、いつも何かにつけて怒ってきた人は ... 続きを読む
心というものは、ある特徴を持っています

それは、同じような考え方を繰り返していると、いつの間にかそのような心になっていくというものです。


皮肉っぽく考えがちな人は、以前からそのような考え方を繰り返してきた結果ですし、いつも何かにつけて怒ってきた人は、いつの間にか怒りっぽい心になっていきます。


いちどそのようなパターンが作られると、今度は無意識にそれを繰り返します。

それを僕たちは人格と呼んだりします。



ということは、その特徴をうまく使えば、自分の心をプラスの状態に持っていくことができるということです。


それが修養とか修行とか呼ばれるものです。




僕など若いころはそのような理屈を知らずに、ずいぶんと偏ったパターンを自分に強いてきました。


人を信じて裏切られた経験から、人には必ず裏があるから気をつけようと考えました。


そして誰と会っても心の中に警戒心を持ち、常に注意深く接していったのです。

気がついてみると、もうすっかり人を信じられない人間になっていました。



こんなこともありました。

子供のころの僕は、どちらかというとおっとりとした性格で、怒るという感情はあまり湧いてきませんでした。


それがある時友達から、「お前、よくあんなこと言われて平気だな。俺ならすごく怒っている」と言われ、そうかああいうときは怒るのかと思いました。


それからというもの、ちょっと嫌なことがあると、すぐに怒る練習を密かに始めていました。

その甲斐あってか、大人になる頃には、人があまり怒らないことにまで頭に来るような、そんな怒りの達人に生まれ変わっていました。


怒りっぽくて、誰のことも信用しない男・・・それが僕です。


そんな自分が嫌いでしたが、でも自分はそういう人間なんだと思いこんでいました。




さて僕は、そしてあなたは、どんな人なのでしょうか。

実際には僕たちは、「こういう人間だ」などと決められるようなものではありません。

そんなワクで括れるような、ちっぽけな存在ではないのです。


自由自在な、無限の可能性を秘めた存在、人格を超えた存在、それがあなたであり僕なのです。

しかしこの世で生きていく限り、僕たちは人格を携えて生きていくわけで、その人格次第で社会的な成功にも、内側で感じる幸せ感にも影響が出てきます。



さて話を戻しますが、僕たちが人格と呼んでいる心の在り方は、自分次第でどのようにも作り出せるのです。

それは心というものが固定されたものではなく、一定の習慣の中で作り出されるものだからです。



この数日間、瞑想の話をしてきました。

ここで扱ってきた瞑想は、究極の意識のためにものでしたが、もっと簡単に生活の中で活用できる瞑想もあります。

正しくは瞑想というよりは、イメージトレーニング、心の修養のようなものです。



これは以前から各所で伝えてきた簡単な技法です。

やりかたは、夜寝る前の20分間、目を閉じて楽な姿勢で座り、ゆっくり深呼吸をくりかえして心を落ち着けます。

そのあとで心の中に、自分の家族や大切な人を一人ひとり思い浮かべ、その人の健康や幸せを心から祈るのです。


それができるようになったら、だんだんとその輪を広げていきます。

最後は世界全体、あらゆる人の幸せと健康を祈っていきます。


これは慈悲の心を育んでいく、もっとも直接的な技法です。


これを毎日繰り返すことで、必ず慈悲の心になっていきます。

その心が、自分に起こる出来事や、周囲の人たちへの解釈につながっていきます。

その結果、周りの現実は変わらなくても、違う世界に住むようになるのです。



このやり方が、もっとも大きな効果を生むのは、自分が苦手だと思っている人や、嫌いな人に対して幸せと健康を祈ったときです。

最初はなかなか、できにくいかもしれません。

でも何度も真剣に取り組んでいるうちに、そんな心が持てるようになります。


その相手も、いつか必ず死んで行く運命にあり、人生をできるだけ幸せに生きたいと望んでいて、にも関わらず幾つもの苦しみや悲しみを抱えていることは確実だからです。

それが人生だからです。


もし、苦手な人や嫌いな人、あるいは恨んでいる相手に対して幸せを祈れるようになれば、劇的な変化が訪れます。


まずあなた自身が、とても幸せな気持ちになっていきます。

何かから解放されて、自由で生き生きとした気持を取り戻します。


そして相手も、あなたに対する態度が変わってきます。


以心伝心・・・まことに不思議なことですが、それは時空を超えて相手の心にも影響を与えるのです。



何事も実践です。

同じ考えの繰り返しによって、いつの間にかそのような自分になっていることを、プラスに利用してみましょう。

これはお勧めです。




いつもみなさんの幸せと健康を祈っています。


今日もここに来てくれてありがとうございました。





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今日もみなさんの質問に答えることで、瞑想についての理解を深めていきたいと思います。 >るりこうさん 数ヶ月前、1度だけいきなり不思議な感覚を体験しました。 一人で居る時に、突然日頃思考する自分本人の感覚が消えてしまったのです。 代わりに、この身体は自 ... 続きを読む
今日もみなさんの質問に答えることで、瞑想についての理解を深めていきたいと思います。


>るりこうさん

数ヶ月前、1度だけいきなり不思議な感覚を体験しました。
一人で居る時に、突然日頃思考する自分本人の感覚が消えてしまったのです。
代わりに、この身体は自分が入っている器だという感覚が強くなり
全てのものが繋がっているんだなぁ・・と感じていました。
自分が自分で無い感覚が怖くなり、元の自分が消滅してしまうのではと心配になりました。
暫くしたら元に戻ったのですが・・
これも見張り人なのでしょうか。
何故、いきなりこんな感覚に入ったのかもよく判りません。




あなたが全てと繋がっている感覚の中にいるときは、我がなくなっていた時です。

それは大きな至福感を伴っていたことでしょう。

しかしその体験を評価したり心配した時点で、自我が出現しています。


全てと繋がっているというのは魂のあたりまえの状態であり、ことさら驚くことではないのですが、普段肉体と同化して他との分離感の中で生きている僕たちにとっては、驚異的な気がしてしまうのです。

特に最初の一瞥を得た時はそうです。

自我が消えうせて初めて真我があらわれてくるのですが、自我は自分が消滅してしまうことを怖れているので、すぐに何かを仕掛けてきます。

だから瞬時にその体験を評価しようとするのです。

評価とは、対象に向けて行うことなので、その瞬間に我と対象の2元性が出現し、一体感は消えうせます。



そして、何故そのような感覚になったかわからないと言うことですが、わからなくて当然です。

その体験は因果を超えていて、理由なく突然訪れるからです。

もし原因があるのなら、人類はもっと早くにその境地に至る方法を完成させていたでしょう。


でも、あえて言うとしたら、その唯一の道が瞑想です。





>ヘンゼルとグレーテルさん

ヴィパッサナー瞑想を継続していれば、いずれ真の瞑想に到達するのかな……??



ヴィパッサナー瞑想という言葉、あまり聞きなれないという人も多いことでしょう。

ヴィパッサナーとは瞬間瞬間の行為や思考の想起に気づいていることで、完全に「いまここ」に戻ってくるテクニックです。


僕たちは終わってしまった過去のことや、これから先の未来のことに心を囚われがちです。

身体はいまここにあるのですが頭(心)は、どこか違う世界にあるものです。

それはリアリティーの中に生きているのではなく、自分の妄想・想念の世界に生きているのです。


しかも、不安、悩み、後悔、憎しみ、怒りなど、僕たちの苦しみはすべてこの絶え間ない想念によって引き起こされています。


そこで頭の中を生きるのではなく、今まさに目の前の現実に気づいていようというのがヴィパッサナー瞑想です。


僕は繰り返し、瞑想とは何かに至る手段(行為)ではなく、瞑想自体が目的であり結果だと話してきました。


ヴィパッサナーにおいても、それが完全にできた時、すでに「いまここ」に帰ってきている状態で、最初の一歩がゴールになるのです。


ところが僕たちの想念というのは長年の習慣からか、間髪入れずにすぐに顔を出します。

だから南伝仏教(釈迦の教えを純粋に学ぼうとする伝統・上座部仏教)においては、思考を止めるサマタ瞑想によって心を静める訓練をした後に、ヴィパッサナーに取り組んできました。


質問があったので答えましたが、瞑想のイロハを学ぶのもいいとして、やはり実践が一番だと思います。


まずは自分が常日頃から、絶え間ない思考の中に暮らしていて、自分本位の世界観と人生観を作り出していることに気づくことが始まりだと思います。




>ジュリアさん

座禅と瞑想の違いは何ですか?目的による使い分けはありますか?



坐禅はまさに瞑想です。

サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の話をしましたが、禅はそれを同時に行います。

この話もいつかさせてもらうと思います。





少しはお役に立てましたか。


自分でも書いていてワクワクしてきたので、きっと僕の魂が喜んでいるんだと思います。



いま時代が大きく変わり始めています。

その流れの中で、自分自身を見失わず、常に自分と向き合うという姿勢は何よりも大切だと思います。



何かをしないとバチがあたるとか、何かをすると罰が下されるとか、そのような戯言を信じてはいけません。

この世にはあなたを判断したり、あなたの行為を評価するような存在はいません。


ただ唯一、あなただけがそれをしています。

究極的には、この宇宙にはあなたしか存在していないのですから。


その真理に気づくのが瞑想です。

それはとてつもない祝福です。





今日もここに来てくれてありがとうございました。




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明日の「いまここ塾」は、いつものように吉の浦会館(895-6994)で20:00からです。

このブログの流れで、今回は瞑想についてお話します。

どなたでも入れますので、お気軽に参加して下さい。
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この数日間、瞑想についての質疑応答の形をとっていますが、ますます寄せられる質問の内容は、どれもこれも興味深く、ひとつひとつに取り組んでいこうと思っています。 でもここではっきりさせておかなければいけません。 それはなにかと言うと 僕は瞑想の専 ... 続きを読む
この数日間、瞑想についての質疑応答の形をとっていますが、ますます寄せられる質問の内容は、どれもこれも興味深く、ひとつひとつに取り組んでいこうと思っています。



でもここではっきりさせておかなければいけません。

それはなにかと言うと


僕は瞑想の専門家ではありません。



「え!?びっくり!そうなんですか?」



はいそうです。瞑想は生活習慣に取り入れていますが、僕自身は瞑想の教師ではなく、それで生計を立てているわけでもありません。



「でも、時々瞑想会なんかもやりますよね」



はい、ご要望に応じてね。




「じゃ、あなたの職業は?」




遊び人です。




「へっ?」






瞑想指導をするのが僕の本意ではありません。

でも瞑想を理解することを通して、自分たちが何者なのかを含め、存在の神秘に触れることができます。

そんなわけで、これからもちょくちょく話題にしていきますね。




僕が最近特に思っていることを書きます。


気がついてみたら、こんなにたくさんの素晴らしい人たちが僕の周りに集まってくれました。

自分の人生に、こんな幸せが待っているとは夢にも思いませんでした。

おそらくは、ネットというプレゼントがなければ、一生かけても会えなかった人たちだと思います。



僕以上に理解が進んでいる人たちもたくさんいます。

でもその人たちは、決して自分をひけらかすことなく、優しい物言いで意見を伝えてくれます。


まことにありがたいことです。

こうして文章を書いていても、ありがたさに涙が出てきます。



これからも自分のありのままを発信していきます。


あっちに行ったり、こっちに行ったりしながら、でも常に真実の方向を見つめていたいと思っています。



これからもよろしくお願いします。




今日は日曜日。

みなさんにとって、素敵な一日でありますように。

また明日お目にかかります。






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ありがとうございましたニコニコ
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白猫庵さんからの質問です 私は瞑想とは自分を他人のように、とことん客観的に観察することだと思っています。 感情の嵐の真っ只中にいる時でも、そんな自分を離れたところで観ている"もうひとりの自分"がいます。 これが"真我"だと思うのですが、これも自我の影なんで ... 続きを読む
白猫庵さんからの質問です

私は瞑想とは自分を他人のように、とことん客観的に観察することだと思っています。
感情の嵐の真っ只中にいる時でも、そんな自分を離れたところで観ている"もうひとりの自分"がいます。
これが"真我"だと思うのですが、これも自我の影なんでしょうか。




昨日伝えたように、瞑想とはあらゆる行為をやめた時に、自然発生的に訪れる状態です。

白猫庵さんのやっていることは、自己観察という一つの行為です。

自分の無意識のパターンに気づくためには自己観察は不可欠ですが、それは厳密に言うと瞑想ではありません。


もちろん自己観察は大切ですから、続けるのがいいと思います。

特に感情を見つめることは、感情と自分との間に距離を作り、いたずらに振り回されなくなるでしょう。



しかし瞑想は、また違った存在です。

今日は白猫庵さんが書いてくれた「自己観察」を題材にして、再度瞑想について解説してみます。


自己観察には自己が存在しますが、瞑想には自己は存在しません。


自己観察をいくら続けても、決して瞑想にはなりません。

むしろ反対側の方向に向かうことになります。


瞑想においては、主体と客体がひとつに溶け込み、全体意識が現れます。

一方で自己観察においては、観察する自分と、観察される自分という、二つの対極が強化されていくことになります。

それはどこまでいっても二元対立の世界です。



したがって次の質問の答えは明らかです。


自分を離れたところで観ている"もうひとりの自分"がいます。
これが"真我"だと思うのですが、これも自我の影なんでしょうか。




もうおわかりのように、それは真我ではありません。

それは「見張り人」と呼ぶのがいいと思います。



見張り人は、より高い自己を目指していますが、見張り人が消えれば、「より高い」とか「より低い」とかいう概念も一緒に消えてなくなります。

そして、ただあるがままの状態が現れるのです。


瞑想は、より高みに達することが目的ではありません。

単に「いまここ」に在ろうとすることなのです。



すでに僕たちは、完全無欠の意識(真我)を持って生まれています。

それは達成されなければいけないようなものではありません。

最初から僕たち全員に与えられているものです。



ただあるがままにくつろぐこと。

深くリラックスすること。


それが秘訣です。



見張り人が消えると、それが心を占めていた広大なスペースが出現します。

そのスペースの中に根源的な知性があり、その知性が、あるがままの現実に対応していくことを可能にします。


そのためには安心していくことだと思います。

自分を信じることです。




こうして質問してくれると、僕自身も明確になっていきます。


ありがとうございました。





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megさんからの質問です。 私の瞑想についての解釈の的がずれているような気がしています。 「方法」や「形」にこだわってしまい、理解が足りないのだと思います。 何かコツのようなものはあるのでしょうか。 よく誤解されることですが、瞑想とは「すること」で ... 続きを読む
megさんからの質問です。


私の瞑想についての解釈の的がずれているような気がしています。
「方法」や「形」にこだわってしまい、理解が足りないのだと思います。
何かコツのようなものはあるのでしょうか。




よく誤解されることですが、瞑想とは「すること」ではありません。

それは行為ではないのです。

行為ならば方法や形がありますが、行為ではないので実際にはそのようなものは存在しません。


瞑想よりも○○のほうが優れているなどとおかしなことを言う人がいますが、行為でない以上比較対象にはなりえません。


瞑想とは、あなたのあらゆる行為が止んだ時に、自然発生的に訪れる状態です。


それは「何もしないこと」を通して達成されます。




それは眠りに似ています。

眠りも行為ではありません。


それは状態です。

したがって眠りを意志の力で直接作り出すことはできません。


僕たちにできるのは、眠れやすい姿勢をとって、気持ちを静かにして、眠りが訪れるのを待つだけです。

眠りは自然発生的に起きるのです。

それは彼方からやってきます。



瞑想も同じです。


しかし瞑想と眠りはまったくの正反対でもあります。


眠りにおいて我々は意識を失い、瞑想において意識は100%開花します。


通常人が「瞑想をした」という時、それは瞑想に入るための何らかのメソッド(技法)を実践したということを言っているのです。



もうわかりましたね。

瞑想とは何かを達成するための方法ではなく、瞑想自体が目的であり結果なのです。

まず最初にそのことを理解して下さい。




僕たちはあまりにも生真面目に人生を生きています。


だから瞑想と言われると、それも完璧な方法で完全にやり遂げようとするのです。

しかし瞑想とは、そのような深刻な態度を脱ぎ棄てて、この世には何一つ「~べきだ」が存在していないということを見抜くことなのです。

自分が自分に果たしてきた様々な義務や制約を見抜き、存在が我々に見せてきた創作ドラマの滑稽さを笑うことなのです。



真理のキーワードは「宇宙的冗談」「宇宙的遊戯」です。

それを「Leela」と言います。



瞑想は方法ではなく、意識があらゆる束縛から解放された状態です。

瞑想が達成されれば、憧れも期待も欲望も消えていきます。

「いま」であることを覆っていた夢たちが、霧のように消え去っていきます。


そして真にあるがままの完璧なる世界が顔を出すのです。


それは最初の最初からあなたに与えられていた、あなたの本質です。



それでも人は尋ねます。

瞑想が「何もしないこと」を通して達成するのならば、どのようにして「何もしないこと」をするのかと(笑)


OK、わかりました。

これからも様々な観点から伝えていきましょう。


あなたが「何もしないこと」をやれるようにねニコニコ





今日もここに来てくれてありがとうございました。






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今日アップした動画には、実話のストーリーがあります。 それを知ってもう一度見ると、また違う感動が訪れますよ。 その話とは・・ ある日、女性がジャングルで瀕死の状態(人間の虐待だそうです)のライオンを見つました。 彼女は家に連れて帰り、必死に介 ... 続きを読む
今日アップした動画には、実話のストーリーがあります。

それを知ってもう一度見ると、また違う感動が訪れますよ。

その話とは・・



ある日、女性がジャングルで瀕死の状態(人間の虐待だそうです)のライオンを見つました。

彼女は家に連れて帰り、必死に介抱したことでライオンは一命をとり止めました。

その後彼女は、元気になったらライオンを引き取ってくれる 動物園を見つけました。


時は流れ、ライオンの様子を見に動物園に出かけました。

そして・・・会いに来てくれた女性を見つけたライオンが取った行動があの画像だそうです。




なんとすばらしい「愛の劇場」でしょう! 


ライオン君の表情が何ともいえませんね。



この話を噛みしめながら、今日の「愛の劇場」を見てねハート


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この数日間のブログは、ちょっとややこしい内容だったので、今日は一息入れましょう。 でも真の精神の道を歩もうと思う人には、何度でも検証すべき大切なポイントなので、時間がある時に読み直してみてくださいね。 最近我が家では、愛のシーンがいたるとこ ... 続きを読む
この数日間のブログは、ちょっとややこしい内容だったので、今日は一息入れましょう。

でも真の精神の道を歩もうと思う人には、何度でも検証すべき大切なポイントなので、時間がある時に読み直してみてくださいね。






最近我が家では、愛のシーンがいたるところで展開されています。


あーでもない、こーでもないと人間たちが大騒ぎしている傍らで、この子たちはただ「いまここ」でお互いをいたわり合っています。

その禁断の写真を公開しましょう。





















それともうひとつ。

以前、知人が送ってくれた動画です。

僕たち人間は、ここまで純粋に愛を表現しているでしょうか。








感動ぐすん






さて、昨夜は久しぶりに友人の家を訪ねて、深夜まで笑い転げていました。


彼は普段は東京でソフトバンクやNTTドコモなど有名企業の研修を請け負っていて、いま最も人気のある講師の一人です。

専門はリーダーシップ論ですが、その内容は、ますます「心」に傾いてきているそうで、このブログも熱心に読んでくれています。



僕は今の東京の様子を何も知りませんが、12月13日に東京で初めての講演会を開きます。


今回はソロ講演で、次回は向禅師(臨済宗教学部長)とのコンビでお贈りする予定です。


お楽しみに。




11月15日は、札幌でこれまた初めての講演をさせていただきます。


詳しくはコチラから。

携帯の方はコチラから。



12月7日は再び能登の七尾市から呼んでいただきました。

今回はもう少し専門的なお話をさせていただくと思います。







また明日から、「自我の構造」や「瞑想」の話の続きを展開していきます。







今日もここに来てくれてありがとうございました。







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