かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2008年12月

深い瞑想は、まるで海の底に沈んでいるかのようです。 そこは沈黙の世界。 何もないのですが、とてもゆったりと落ち着いていて自由な広がりがあります。 その世界から表層意識を見上げると、忽然とひとつの思考が顔を出します。 どの思考が出てくるの ... 続きを読む



深い瞑想は、まるで海の底に沈んでいるかのようです。

そこは沈黙の世界。

何もないのですが、とてもゆったりと落ち着いていて自由な広がりがあります。



その世界から表層意識を見上げると、忽然とひとつの思考が顔を出します。

どの思考が出てくるのか、その可能性は無限にあるのですが、ほんのささいなことをきっかけにしてひとつが選ばれるようです。


選ばれたその思考は、自然展開しながら次第にリアルな空想を描きだしていきます。

まるで今はそれを考えることが最も重要なことのような顔をして、思考は生き生きと展開していくのです。


そんな思考(空想)に浸ってしまえば、日常で誰もがやっている『考え事の世界』になってしまうので、それらの思考を全部放り出して、海の底へと戻っていきます。



再び沈黙の世界です。

そこは充足感と平安が広がり、深い休息に包まれています。




瞑想が熟練してくると、思考を選べるようになります。

思考自体をやめることもできます。


その時初めて、自分に対する主導権を手にしたことになります。

それまでは、思考に振り回される操り人形のようなものです。



思考をコントロールするのか、思考にコントロールされるのか。

その違いは大きいと思います。

その技術は瞑想によって培うことが可能です。




来年以降、ますます瞑想の必要性を誰もが実感するようになると思います。

それとともに、叡智と愛をバランスよく持つことを学び始めるでしょう。



人生の試練など大した問題ではありません。

そんなものはいとも簡単にクリアできます。


あまりにも表面的な問題に一喜一憂するあまり、僕たちは最も大切な「存在の秘密」を見失ってしまったようです。



さあ、そろそろあなたも思い出す番です。

自分が誰なのかを。




来年もこんなメッセージを伝え続けていきます。

僕の出番はこれからだと思っています。





よいお年を。

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僕はブログを書くのが好きです。 ここには何の計算もないからです。 もしこれが経済活動だとしたら、ここまで好きになれなかったと思います。 講演も同じです。 新年に180回目を迎える「いまここ塾」も、お金のためにやったことはありません。 もし僕 ... 続きを読む
僕はブログを書くのが好きです。

ここには何の計算もないからです。

もしこれが経済活動だとしたら、ここまで好きになれなかったと思います。



講演も同じです。

新年に180回目を迎える「いまここ塾」も、お金のためにやったことはありません。

もし僕がそれを目的にしたら、多くの聴衆を集めるためにはどんな話がいいだろうとか、気にいってもらうにはどんな内容にしようとか、さまざまな作為が入り込み、ここまで続けることはできなかったことでしょう。

どのように受け取られようとも、自分が感じる真実を告げていこうという気持ちがあったから、ここまでやってこれたのだと思います。


同時にそれは「与えたい」という気持ちです。


講演に来てくれた人や、ブログを読んでくれる人に、自分が知っている全てを与えたいと思っています。


もしその人が、自己に対する信頼を失っているならば、その信頼を回復させてあげたいと思っています。


もしその人が、罪悪感にさいなまれているとしたら、何一つあなたのせいではないと言ってあげたいと思っています。


もしその人が、劣等感に苦しんでいるとしたら、僕たちはまったく同じものでできていて、何一つあなたは欠けていないと言ってあげようと思っています。


これらは、人をいい気持ちにさせるためのリップサービスではなく、単に事実だから伝えたいのです。



人の苦しみの多くは、その人の誤解から生じています。

そのことを教えてあげたいのです。


僕のことを人がどう評価しようと、与えたいという気持ちがあれば、勇気を持って行動することができます。


反対に計算や搾取の気持ちが根底にあれば、常に何かに脅えて暮らさなくてはならないことでしょう。


それでは幸せになれません。


与える気持ち(愛)は、即幸せに結びつく最高の生き方だと信じています。




さてこのブログですが、最近は書かない日もありました。


それはそれで気楽だし、いいこともたくさんあったのですが、また再び毎日書いていこうかと考えています。

続けることに意味があるし、生活の中に一つくらいはプレッシャーのかかるものを持っているのも刺激的でいいような気がします。


それに楽しみにしていてくれる人もたくさんいるし、そんな人たちへ僕ができる最高のサービスは、毎日書き続けることだと思いました。




いつから始めましょうか。



う・・・・ん・・・・新年からキラキラ 



こういう時に新年って便利ですね。

何か新しく始めたり、気持ちを新たのするには持って来いです。



そんなこんなで、これからもよろしくお願いします。

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メリークリスマス! キリスト教の優れた点は、愛について率直に語っていることだと思います。 それは、愛という言葉の意味を分析したり、何が正しい愛なのかを掘り下げたりすることではありません。 もっと簡単でシンプルなものです。 そもそも僕たちがこう ... 続きを読む
メリークリスマス!


キリスト教の優れた点は、愛について率直に語っていることだと思います。

それは、愛という言葉の意味を分析したり、何が正しい愛なのかを掘り下げたりすることではありません。

もっと簡単でシンプルなものです。


そもそも僕たちがこうして地上に生きている目的は、この地上を愛で満たし、自らが愛の源になるためだと、キリスト教は説いています。







よく、「人生で何をしたらいいのですか?」という質問を受けます。

特に若い人からは、自分が何をしたいのかわからないという話を聞きます。



実は、何をすればいいかはあまり重要なことではありません。


「何をするのか」ではなく、「どのようにするのか」が大切です。



どのように・・・その答えは簡単です。


心をこめて親切にするのです。


どのような行為も、どのような仕事も、心をこめて親切にすることです。


そのような態度で、いまここの現実を生き始めた時、それが愛を生きるということだと思います。




そのような生き方をしていると、奇跡が起きてきます。

なぜなら、愛は神の意志であり、宇宙の計画に沿った行為なので、その時あなたは神の仕事をしていることになるからです。

神はあなたの愛が最も生かされる場所にあなたを誘いはじめます。

そのようにして人生が展開しはじめます。

偶然の一致が増えていき、必要な出会いが生じ、自分にとってもっともふさわしい場所に誘われていくのです。




僕たちは例外なく、それぞれに与えられた独自の才能や個性を携えています。

それを隠すことなく、過小評価することなく、この世界を喜ばすために、この世界を癒すために使っていくのです。

まずは、いまここにある目の前の現実に対して行っていきましょう。



それは自分を神の道具として使ってもらえるように祈ることです。

自分が世界を癒すためにこの世に遣わされたことを思い出すのです。


その時初めて、自分の人生に「意味」が生まれてきます。

それは全ての人に開かれた道です。




今日はクリスマスイブ。

自分の中の愛を、身近な人に表現してみましょう。




この地上から苦しみが消え去りますように。

世界が癒されますように。


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今年も終わりですね。 巷で噂される2012年12月22日が本当だとしたら、あと丸4年間です。 自分を高めておくのには、ちょうどいい期間かもしれませんね。 自分を高めるとはどういうことでしょうか。 僕なりに言えば、この世の現象にどっぷりと浸か ... 続きを読む
今年も終わりですね。


巷で噂される2012年12月22日が本当だとしたら、あと丸4年間です。

自分を高めておくのには、ちょうどいい期間かもしれませんね。



自分を高めるとはどういうことでしょうか。

僕なりに言えば、この世の現象にどっぷりと浸かっている日々の生活から、霊的な自己に目覚めていくプロセスだと思います。


現象界の出来事に惑わされることなく、不変なる自分を発見することです。

それはつまるところ、神との遭遇ということになります。



昔から、人が神を求めるのは絶望の淵に立たされた時だと言われてきました。

僕自身も絶望の淵で最初の一瞥を体験したので、この言葉は真実だと思います。


でもね、最近はちょっと違う考えを持つようになりました。

たしかに最悪の状態にまで追い詰められて初めて人は己(おのれ)の無力さを知り、謙虚になり、彼方なるものを受け入れる準備ができますが、何もそこまで追い詰められなくても、今すぐに求めたらいいと思うのです。


神が僕たちに試練を与えようとしているわけではありません。

打ちひしがれた姿を見届けてから姿を現そうとしているわけでもありません。


僕たち側が、そこまで追いつめられないと神の存在を考えようとしないのです。



いま仕事や生活が順調にいっている人は、この先も自分の努力や才能で、うまくことが運ぶと信じているかもしれません。

やっているのは「自分」だという誇りを持っているかもしれません。


そのような時に、自分の無力さを認め、神の存在を受け入れるのは至難の業です。


クリスマスも近いことなので、今日は聖書の言葉を引用してみます。


「富める者が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が易しい」


昔から人は、順調な時には傲慢になって感謝を忘れがちだということです。




いまここから、神に意識を向けてみませんか。

それが僕たちの成長を促してくれます。


あなたは神を待っているのかもしれませんが、実際には逆で、神があなたを待っているのです。


いつも「いまここ」で、あなたが振り向いてくれるのをじっと待っているのです。




最近は誤解を恐れずに、「神」という言葉を頻繁に使うようになりました。


もう時間もないことですし、直球勝負で書き綴っていきます。




今日もここに来てくれてありがとうございました。



・・・・・・・・・・



明日は今年最後の「いまここ塾」です。

那覇市の「てぃるる」(866-9090)で、19:30開演です。

初めての方も、お気軽にお越しください。

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昨日いただいた質問にお答えします。 無限進化さん >阿部様が到達された境地は、釈尊・達磨・道元やラーマクリシュナの境地と同じものですか? 傲慢に聞こえるかもしれませんが、ただ正直に答えるとしたら、聖なるブッダ達と同じ境地です。 その場所はひとつし ... 続きを読む
昨日いただいた質問にお答えします。


無限進化さん
>阿部様が到達された境地は、釈尊・達磨・道元やラーマクリシュナの境地と同じものですか?


傲慢に聞こえるかもしれませんが、ただ正直に答えるとしたら、聖なるブッダ達と同じ境地です。

その場所はひとつしかなく、誰もがそのひとつなるものに到達するのです。


僕たちは頭の中のイメージによって、この世には自分よりはるかに優れた存在がいて、自分が知らない何かを知っていると感じています。

確かに通常の僕たちが未だ見ていない高い次元が存在していますが、それはどこか遠くにあって手が届かないのではなく、あまりにも近すぎて見落としている何かです。

それは我々の存在の基盤であり、ブッダはその存在を認識したにすぎません。

あらゆる人が、その同じ基盤の上に生きています。

それはひとつのものであり、優劣はありません。

あなたが空(くう)を体験したとしたら、その空は過去においてあらゆる聖者たちが経験してきたのと同じ空です。


もしその体験の中で、「いまのこの体験は本物だろうか」という疑問があったとしたら、それは空の体験ではありません。

その中においては、あらゆる疑問も、あらゆる迷いも、あらゆる比較も入る余地はなく、ただ絶対的な感覚に覆われるからです。

それは疑いようのない超リアルな体験です。

同時にそれは全ての人が持っている潜在的な可能性です。

どこかの凄い人に用意された体験ではなく、まさに「あなた自身」に用意された、素晴らしい体験なのです。


その体験を神と呼びます。

神は僕たちすべての命の本質です。




RIOさん
>私も瞑想習慣をつけたいのですがなかなかできません。
>そこで瞑想用のお香や、シンギングボールのCDを買ってみたりしたのですが。
>呼吸でなく、音楽や香りに意識を集中することでも瞑想には差し支えのでしょうか?



瞑想とは、実際には何にも集中しない状態です。

あるいは全てに集中している状態です。

この矛盾する2つは、同じことを言っています。


集中には対象が必要です。

何かに集中しているときは、その対象以外のことには無意識になります。

たとえば街角で音楽に集中すれば、街の雑踏の音は聞こえなくなります。


それはひとつを選んで、それ以外を排除している状態です。

その状態は瞑想ではありません。

瞑想は、何にも集中しない、そして同時に全てを意識している状態なのです。



それなのに坐禅では呼吸に集中しろと言います。

呼吸を意識することで、それ以外の雑念想念を消し去るためです。


これはいわゆる方便です。

最初から、無の境地には入れないので、まずは一番シンプルな行為である呼吸を利用して、最終的には呼吸への意識も超えていきます。

そこに覚醒があります。

覚醒とは、何一つ特別に集中することなく、全てに目覚めている状態です。



音楽や香りを用いるのは悪くありません。


僕自身も香りは使います。

唯一の贅沢で、伽羅(きゃら)という一番高級な線香を焚きます。

気持ちがリラックスするのをサポートしてくれます。



その一方で、音楽は基本的には使いません。

音楽の場合は、作った人の意志が入り込んでいるものがあるからです。


あきらかに彼方なるものがそのまま降りてきたような音楽ならば、瞑想の邪魔にならないかもしれませんが、できることなら静寂が一番です。



音楽を楽しむ時は、ただ純粋に音楽を楽しむことにしています。





今日もここに来てくれてありがとうございました。




・・・・・・・・・




1月に東京でライブをします。


1月24日


秋葉原・「あきた犬」


昼の部 15:00~17:30

夜の部 18:30~21:00



今日から受付を開始します。


お問い合わせ・お申し込み

098-866-5880


詳しくは

http://abetoshiro.ti-da.net/e1503735.html
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朝目が覚めた直後の、まだ目を開ける前のわずかな時間。 自分が誰であるとか、今がいつであるとか、そんなことさえも頭に介入する前の静寂が好きです。 瞑想は意識的にそんな境地に入っていきます。 何も考えない状態です。 何も考えない状態を無心と言いま ... 続きを読む
朝目が覚めた直後の、まだ目を開ける前のわずかな時間。

自分が誰であるとか、今がいつであるとか、そんなことさえも頭に介入する前の静寂が好きです。


瞑想は意識的にそんな境地に入っていきます。

何も考えない状態です。


何も考えない状態を無心と言いますが、そこに至るためにはちょっとしたコツが必要です。


坐禅の場合は、一心に呼吸に意識を向けることで、思考の働きから離れようとします。

呼吸の他には何もない、呼吸三昧の境地が目指すところです。


他の瞑想法としては、思考が出てきた時に、これは思考だとラベルを張り付けて、思考から離れるという方法もあります。

普段僕たちは思考と意識がひとつになっているので、自分が考えているという自覚さえありません。

朝から晩まで無意識にずっと頭の中で何かを考え続けています。

あれやこれや、あっちこっちと、それは途切れることがありません。


一日数万もの思考が頭の中を廻っているそうです。

しかもその90%は、昨日考えたことと同じことだといいます。



そんな思考の群れから離れていく、瞑想は無心に至る道です。


瞑想をしようという意思は自我から出ます。

無心になりたいという意思も、欲望と呼べば欲望でしょう。


それは自我から発生し、自我を通して働き、自我を超越していきます。

自我を超えたとき、神我一体の境地が顔を出します

それは完全なる沈黙です。



その沈黙の中から感謝が溢れ出してきます。

とても言葉では表現できない、とてつもない喜びとありがたさ。

ただ生かされて在ることの喜び、それが「祈り」と呼ばれる状態です。


その状態において、あらゆる思想や哲学や宗教が一つになります。

まるで様々な川が、流れ流れて海にたどり着くようなものです。


どちらの川が正しいとか、どちらの川が大きいとか、そのような比較はまったく意味をなしません。

海に至れば、すべては同じことです。



一日のうち、せめて一時間はその境地にいたいと思って生活しています。

瞑想習慣を持つようになったことが、人生で得た最も大きな宝物です。

そんな人生に、心から感謝します。



全ての存在が幸せでありますように。

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先日、大麻についての記事を書いたところ、大きな反響がありました。 コメント以外にも、たくさんのメールもいただきました。 どちらかというと大麻擁護論のような内容の記事でしたので、厳しい意見が多数寄せられる思いきや、同じような考えの人が多くて意外でした ... 続きを読む
先日、大麻についての記事を書いたところ、大きな反響がありました。

コメント以外にも、たくさんのメールもいただきました。


どちらかというと大麻擁護論のような内容の記事でしたので、厳しい意見が多数寄せられる思いきや、同じような考えの人が多くて意外でした。

経験者からのメールや、また今も現在進行形で常用している人のメールまでありました。


僕は先日もここに書いたように、大麻自体は世の中で言われているほど悪いものだと思っていません。

全面的に解禁しているオランダでは、道端で吸引したり、街角でラリッている人もほとんど見かけませんでしたし、市民は秩序を保って使いこなしているように見えました。


飲酒がらみの事故や事件が毎日のように起きていることを考えれば、大麻だけを悪者扱いすることには違和感を持ちます。


しかしです。
日本国内で大麻を所持したり吸引したりしてはいけません!!

なぜなら、そのような決まりになっているからです。


「悪法も法なり」で、法を守ることは社会で生活する上での基本です。

したがって、大麻はダメです。

もし隠れてやっている人がいれば、その人はどこかにやましい気持ちを抱え、それが人生の各所に発揮され、結果的には思っているような人生を送れなくなると思います。

常習者の心理の中には、この矛盾だらけの世の中で生きるためには、たまにはハイ状態になって、社会から抜け出さなければやっていられないというような気持ちもあるかと思います。

中には、吸引によって深い境地を味わえるからという人もいることでしょう。


でもね、それにも限界があります。

大麻や、一部の麻薬や、向精神剤などで達成できる境地は、本当の「無」や「空」の体験からすれば、まことに低いもので、偽物と言わざるを得ません。

子供が代用品のオモチャで遊んでいるようなものです。


本物の瞑想は、さらにさらに深い境地に達することができますし、その達成は自分の一部となり、消え去ることはありません。

死んだあとに持っていける唯一のものだと思っています。



最近、僕はさらに深い瞑想を経験しています。

残念ながら紙面や講演などでは伝えることができませんが、いつか個人的に伝授できる日が来ると思っています。

そのためには、僕自身がもっともっと成長していくことだと、気持ちを新たにしているところです。




これからもよろしくお願いします。


今日もここに来てくれてありがとうございました。

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