かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2009年02月

この数か月間、瞑想がとても深くなってきています。 昨夜は午前3時くらいから始めて、途中で一回中断したものの、朝方までずっとその状態にありました。 沖縄の遅い朝の気配を感じた時、思考が顔を出しました。 「もうそろそろ戻った方がいいよ」 さすが ... 続きを読む
この数か月間、瞑想がとても深くなってきています。


昨夜は午前3時くらいから始めて、途中で一回中断したものの、朝方までずっとその状態にありました。


沖縄の遅い朝の気配を感じた時、思考が顔を出しました。

「もうそろそろ戻った方がいいよ」


さすがに思考らしい(?)発言で、朝だから起きなくてはという判断からの指示です。



でもすぐには戻れません。

まずは自分が肉体であることを思い出さなくてはいけません。

時間をかけて、少しずつ指先から意識し始めた時、またしても思考がつぶやきました。


「このことをみんなに伝えたら?」


『このこと』が何を意味しているのかはすぐにわかりました。




それを今から書いてみます。



空(くう)と共にある体験は、とても深い幸福感が伴います。


そう聞けば、誰もがそれを体験したいと思うことでしょう。


それはまことに的を射た願いです。

人生に、それ以上の幸せはないからです。



さて何を伝えたいのかというと、実際には、あなたはその体験をいつもしているということです。


もちろん今もしています。

オギャーと生まれてこのかた、いつだってその体験をし続けています。

ところがあまりにもずっとし続けているので、その体験を客観的に認識できないのです。


あまりにもあたりまえすぎて、気がつかないのです。


僕たちが求めているものは、すでに自分の本質として無条件に与えられています。

それはとてつもない安心感と幸福感です。



いま表面的に何を感じていようが、心の一番深いところでは、誰一人例外なくこの幸福感を味わっています。


「そんなバカな」と思考は言いますが本当です。


今日はそのことを伝えるようにと、僕の思考が指示してきました(笑)



ここで何度も伝えてきましたが、悟りとは、悟りに到達することではなく、すでに悟っていたことを思い出すことです。

神とは、ブッダとは、まさに自分のことであり、それ以外に神や仏など存在していないことを理解することです。



この現象界を創り出しているのはあなたです。


世界とはあなたの心の投影以外何物でもありません。


いま自分が生きているこの現実が、自分の決めつけによってできていることを知ることが、瞑想の真髄です。




この世でたったひとつのリアリティー。

それは「いまここ」に、あなたが存在しているということです。


こともあろうに、そのあなたは、僕自身でもあるのです。




あはは、またブっ飛び発言になってしまいました。



さて、また今日も一日、現象界を生きるとするか。




また違う日に、違う言い方で、同じことをお伝えすると思います。





今日もここに来てくれてありがとうございました。




・・・・・・・・・



本日15:30から、うるま市きむたかホール(旧勝連役場隣り)で、市教育委員会主催の阿部敏郎講演会が開かれます。入場無料で、どなたでも入れます。
子供の学力向上が目的ですが、演題は「気楽にいこうね!」です。
いいのかなぁガ-ン


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今日は力を抜いて、ちょっと違う話をします。 昨日我が家で、長年僕のラジオの番組Dを務めている梅ちゃんと、沖縄で行われた雲 黒斎さんとのコラボ講演会の音源の編集作業を行いました。 ちなみにこれが、本邦初公開の僕の仕事部屋です。 知らないうちに梅ちゃん ... 続きを読む
今日は力を抜いて、ちょっと違う話をします。


昨日我が家で、長年僕のラジオの番組Dを務めている梅ちゃんと、沖縄で行われた雲 黒斎さんとのコラボ講演会の音源の編集作業を行いました。

ちなみにこれが、本邦初公開の僕の仕事部屋です。

知らないうちに梅ちゃんが撮った写真で、知っていたらもう少しテーブルの上をかたずけたんだけど、まあ普段着のままでお見せします。


ブログは、主にここで書くことが多いです。

時たま気分転換に、リビングで書いたりもしますけどね。


さて、今回の編集のアイデアやタイミングは彼によるところが大きくて、さすがに番組制作に携わってきただけあって、お見事です。

梅ちゃんによると、この6年間ですっかり僕に感化されて、考え方や生き方が大きく変わったのだそうです。

講演の内容を完全に理解してくれていて、この編集作業は誰にでもできることではないと思いました。


話をテーマごとに分けて、CDの一曲一曲を聴くような感覚でまとめています。

近々録音スタジオをお借りして、女性アナの宮城麻理子さんにナレーションをお願いし、さらにはBGMを重ね、本格的な作品を目指しています。


見出しを見て好きなものから聴けますし、シャッフルすることで、その日の自分に必要なメッセージを車の中で聞くことも可能です。

「聴く本」のような感覚です。

我ながら、いままでに見たこともない新しいものが出来上がったと思います。


たとえばどんなテーマがあるかと言えば、「目覚めの確信」「生命」「瞑想の方法」・・・

ひとテーマ4~5分で11テーマの予定です。

ね、面白そうでしょ。


ちなみにCDジャケットは、グラフィックデザイナーでもある雲 黒斎さんに発注済みです。

ワクワク。



講演に来られなかった人も楽しみに待っていてください。

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先日知り合いと話をしていて、僕たちが一番恐れているのは何だろうという話になりました。 そこには経済的な不安や、健康不安など、いろいろ思い当るものがあったのですが、彼はポツリとこう言いました。 「人の目かも・・・」 人が自分をどう評価するかというこ ... 続きを読む
先日知り合いと話をしていて、僕たちが一番恐れているのは何だろうという話になりました。

そこには経済的な不安や、健康不安など、いろいろ思い当るものがあったのですが、彼はポツリとこう言いました。

「人の目かも・・・」


人が自分をどう評価するかということが気になって、自分を生きられないと言うのです。



確かにそうかもしれません。

僕にも、思い当ることがあります。


特に若いころは、みんなが自分を見ているような気がして、四方八方を気にして生きていました。

しかもそれらの視線は好意的なものではなく、僕の間違いや至らないところを見つけようとしているかのような、敵意を持った冷たいものでした。

大衆が集まる場に行くと、いつもつい自意識過剰になって固まっていたと思います。


たとえ一人で部屋の中にいても、心の中に社会を持ち運んでいるので、リラックスする時間は少なかったように思います。

冒険しようとしても、人は何て言うだろうかということが気になり行動できません。

思ったことを言いたくても、結局は当たり障りのない言葉を選んで話をしていました。


そのようにして見てみると、昔の僕は、自分の意思を生きていたのではなく、人の目に映る自分を確かめながら、人の目の中で生きていたことになります。

まるで人の目の操り人形です。



このような状態が、いったんキレイさっぱり消えたのは、最初の目覚めの一瞥をしたときです。

それまで自分だと思っていたもの(アイデンティティー)全てが、単なる幻想の産物だったことに気づいたとき、それと一緒に「人の目」も幻想中の幻想だったと気づき、それらは一瞬にして消え去りました。

自分が消えた時、周囲も消えたのです。

そして「ひとつなるもの」だけが残りました。


なーんだ、そうだったのか。

みんな自分が作り出していたんじゃないか。


「人の目」も、実際には人の目ではなくて、自分の目だったんだ。

自分から見られていただけで、そんな自分に対して一生懸命に誰かさんを演じていたんだ。


そう思ったら、可笑しくて可笑しくて。

自分がやってきたことの愚かさと、それを必死になって頑張っていた健気さと、生真面目さと、深刻さの全てが、笑えて仕方がありませんでした。


それは自我を超えた瞬間でした。

ということは、「人の目」というやつは、自我の影のようなものです。

自我が消えれば、人の目も消えるのです。


そこから自由になると、なんて楽でしょう。

だってそれまでは、一日のうちの80%くらいのエネルギーを、「こう見られたい」とか「こう見られたくない」とかに使っていたのですから。



本当の自分を知るという体験は、幻想から自由にしてくれます。

そこで自由になったエネルギーが、創造性に変わるのだと思います。

自分というオリジナリティーの開花です。



人の目をまったく気にしなくなると、野獣のような手に負えない自分になってしまうと思う人もいるのですが、そうはなりません。

そう思う人は、今までずいぶん自分を抑圧して生きてきたので、それが噴き出してくるような気がして怖いのです。


でも実際にはそうはなりません。

そこには生まれながらに無条件に与えられている先天的な健全さと、研ぎ澄まされた叡智が備わっているからです。

それは元から全ての人に備わっています。


みんなが自分のそんな部分から生き出したら、この地上がバラエティーあふれる楽園になるのでしょうね。



「人の目」という亡霊から自由になるのは、人類が「自我」という共同幻想から解き放たれるのと同時だと思います。



それはすでに始まっているというのが、このブログの主要テーマです。





今日もここにきてくれてありがとうございました。

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ずっと前に質問がありました。 Q.目覚めても(悟っても)苦しみはありますか? 僕たちは喜びを引きつけて、苦しみを遠ざけたいという思いがあります。 それは多くの人の正直な気持ちでしょう。 でもいままでの人生を振り返ってみると、喜びも悲しみも苦 ... 続きを読む
ずっと前に質問がありました。

Q.目覚めても(悟っても)苦しみはありますか?



僕たちは喜びを引きつけて、苦しみを遠ざけたいという思いがあります。

それは多くの人の正直な気持ちでしょう。


でもいままでの人生を振り返ってみると、喜びも悲しみも苦しみも、来ては去って行きました。

来ては去って行くようなものは自分そのものではありません。

本当の自分とは感情ではなく、その感情を感じている者です。

そして目覚めとは、本当の自分に目覚めることです。


本当の自分から見れば、喜びも苦しみもあまり大した違いはありません。

ポイントは、それらの感情と自己同化するのではなく、それを見守る自分を自覚していることです。



そのような意味合いから言えば、目覚めても苦しみはあるでしょう。

それは繰り返し訪れる単なる現象だからです。


でも、その苦しみに巻き込まれることがありません。

それが自分とは関係ないところで発生していて、いずれ過ぎ去る束の間の現象だと知っているからです。

そうなると、もはや苦しみとは言えません。


それが感情を超越するということです。

感情の超越とは、いやな感情がなくなるわけではなく、いやな感情にあまり影響されないということです。

苦しみがあるというのに、その根底には至福と安ぎがあるのです。



僕自身は、それが徹底してできているわけではないのですが、少しできるようになったということは、もっと徹底できると確信しています。

いつも目覚めているわけではなく、うっかりするとすぐにまた思考や感情と同化してしまいますが、今は自らそのことに気づいて、自分の力で目覚めることができるようになりました。


こうなれたのは最近のことです。

ということは、僕自身も急激に変化しつつあるということです。


あきらかに時代が変わってきています。



人類規模の目覚め・・・これはもう始まっていますよね。

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昨日Marmiteさんから頂いたコメントです。 阿部さん、おっしゃっていることは本当です。 ですが、本当に困ってない人にそういうことを言われたら現在困っている人たちや不安に脅えている人たちは(私も含めて)「困ってない人が何を言ってる?」と思うでしょう。 戦争 ... 続きを読む
昨日Marmiteさんから頂いたコメントです。


阿部さん、おっしゃっていることは本当です。
ですが、本当に困ってない人にそういうことを言われたら現在困っている人たちや不安に脅えている人たちは(私も含めて)「困ってない人が何を言ってる?」と思うでしょう。
戦争で明日をもしれない運命や、親を亡くした孤児、AIDSで死に掛かって、誰からも見捨てられている人たち。
自分が何をしたわけでもないのに、苦しみの中であえいでいる人たちがいます。
この不況の中、仕事の重圧に押しつぶされ、それでも家族を養うために精一杯身体をはって頑張っている人たちは数多くいます。
(中略)
不安を取り除くことはできません。それも又、「今ここ」なのだと私は思いました。
足りない自分には気づきの過程を急げません。




とてもわかりやすい指摘なので、今日はこのコメントを題材にして話をしてみます。



まず、「困っている人」ということですが、何が問題なのでしょうか。


実は、困っているその人が抱えている問題は、不況や、仕事や、家族を養うことではありません。

それらは単に、いまの人生に訪れている現実にすぎません。

現実はただあるがままにあるだけで、いいも悪いも無く「中立」です。


その現実を問題として捉え、未来を心配し、過去を懐かしみ、そうやって「いま」にいられないことが本当の問題なのです。



思考が問題を作り出していて、それは過去と未来という素材からできてきます。

「いま」に徹底すれば、問題は消えます。

そして人生とは「いま」を生きることなのです。

問題は時間の中に存在し、僕たちは「いま」の中に存在しています。



いまを生きること以外は、自分を苦しめるための夢の世界に浸っているだけで、真に生きているとは言えません。

考えの世界に埋没しているのです。


いまに対して、僕たちにできることが二つあります。

必要な対処を行動に移し、やることをやるか、あるいは死の宣告のようなどうしようもない状況ならば潔く受け入れるかです。

その時、いままで心配や不安や被害者意識の中に閉じ込められていた大きなエネルギーが動き出します。



こういう話が理想論に聞こえたり、自分とは無縁のように感じてしまうのは、四六時中思考の中で生きていて、それ以外の可能性を認識できないからです。



もちろん思考は有用です。

でもそれだけになってしまったら極めて有害です。

人生の全ての宝を奪われてしまうくらい有害です。

そして、ほとんどの人が思考の世界しか知らずに生きていて、それを自覚することもありません。



二年半にもわたり、「いま」が大切だと繰り返してきたのは、「いま」しか存在していないからです。

唯一の時が「いま」だからです。


いままでもずっと「いま」でしたし、これからもずっと「いま」です。

僕たちは「いま」以外に存在したことなどないのです。



>不安を取り除くことはできません。それも又、「今ここ」なのだと私は思いました。


それは違います。

「いまここ」には不安など入り込む余地はありません。

その状態は、単に「いまここ」について考えているだけで、まだ時間の中で不安を感じているのです。


考えを使って生きるのはいいですが、考えに使われてはいけません。

自分が主体であるためには、考えない時間をいかに作り出すかがポイントになります。

僕はそのための練習は瞑想しかないと思っています。



>足りない自分には気づきの過程を急げません


あなたも誰も、何一つ足りなくないですし、そのことに気づくのを先延ばしする必要もありません。

それはいつも「いまここ」で気づくことなのです。



「いまを生きる」ということを、知識としてではなく、実践的に生きる時が来たと思います。


わかったようなことを言いましたが、僕自身も少しでもそのような生き方でいられるように、日々精進しているところです。



コメントありがとうございました。





そして今日も、ここに来てくれてありがとうございました。

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ブログを始めて2年半がたちました。 その間に、ご縁のあった皆さんとこうして出会うことができ、中には考え方が変わったとか、気持ちが楽になったとか言ってくれる人たちもいて、こんな活動でも誰かの役に立っているとしたら、大変嬉しく思います。 ここで展開してい ... 続きを読む
ブログを始めて2年半がたちました。

その間に、ご縁のあった皆さんとこうして出会うことができ、中には考え方が変わったとか、気持ちが楽になったとか言ってくれる人たちもいて、こんな活動でも誰かの役に立っているとしたら、大変嬉しく思います。

ここで展開している内容は、日常の感覚では捉えにくいものが多いですが、、それでも僕たち全員の最奥に横たわる普遍的な真実ですので、何かの拍子にそこに触れるきっかけになってくれたらと思いながら書いています。


人によっては、自分の人生の不幸があまりにも大きく、ここで言っているように「全てを受け入れる」など、とうていできかねると言う方もいるかと思います。

僕自身も、自分の身に想像を超えた忌まわしい出来事が起きたとしたら、我を無くして悲しみ、運命を呪うかもしれません。


それでも、真実は変わりません。

全てを受け入れることが、大いなる慈悲によって救われる道なのです。



もし自分の身に、何かとてつもない悪いことが起きたとしたら・・・たとえば死を宣告されたり、大切な何かを失ったり・・・きっと最初はこう思うことでしょう。

「なぜ私にこんなことが起きるんだ。私が何をしたって言うんだ、なぜ彼じゃなくて私なんだ。なぜもっと先じゃなくて今なんだ・・・!!」


なぜ?・・・なぜ?・・・なぜ?

心の奥から湧き出すような、怒りにも似たこの「なぜ?」という疑問には、納得できる答えはありません。

そのような意味から言えば、人生とはまったく理不尽なものなのです。


そこに、前世のカルマだとか、天罰だとか、どんなストーリーを作ったところで、虚しい作り話にすぎません。

思考はそんな創作話が好きですが、根本的な救いには至りません。


そのようなストーリーに甘んじるのではなく、ただ単にあるがままを受け入れることです。


起きていることには何の意味もありません。

ただそのように起きたのです。

なんでも意味を見つけようとするのは、人間の悪い癖です。

人間の狭い思考範囲の中で答えを見つけようとしても無理な話です。


そんな抵抗をするよりは、自分が何も知らないということを認めて、いさぎよく降参するほうがずっとマシです。


そう、降参するのです。


それは敗北ではなく、受け入れるということです。

そして受け入れることが、大いなる叡智を自らの内に発見することにつながっていきます。


その時、自分は大きな力で生かされ守られていることを知るでしょう。

たとえそれを知るのが死の直前だったとしても、その気づきは、人生全体を肯定するのに十分なものとなるでしょう。

その気づきの恩恵は、いつも僕たちの上に降り注いでいます。


同じ時代を旅するあなたと、こうして分かち合えることに感謝します。



今日もここに来てくれてありがとうございました。



・・・・・・・・


PS

明日の「いまここ塾」も通常どおり開催します。

初めての方も気軽にお越しください。

今夜9時からは、ラジオ版いまここ塾(ラジオ沖縄)の生放送です。


PS

東京講演会「イク時は一緒!」に、たくさんのお申込みありがとうございました。

お申込み頂いた皆様には、入金方法などを記した返信メールをお出ししていますが、まだ着かない方は再度ご連絡ください。

特に携帯メールでお申込みされた方の中には、パソコンからのメールを受信拒否に設定してある場合があります。

今いちど、お確かめください。

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久しぶりに爆睡しました。 それだけライブの時間が充実していたのだと思います。 来てくれたみなさん、ありがとうございました。 ライブをやっていて思うのは、音楽の良さは言葉を超えていることです。 言葉ではないところで、交流ができるのです。 こう ... 続きを読む
久しぶりに爆睡しました。

それだけライブの時間が充実していたのだと思います。

来てくれたみなさん、ありがとうございました。


ライブをやっていて思うのは、音楽の良さは言葉を超えていることです。

言葉ではないところで、交流ができるのです。


こういう時間は、日常生活の中でも大切だと感じています。


僕たちの人間関係のほとんどは、会話で成り立っています。

それは思考のキャッチボールです。

思考はその本質からして、分析、判断、独善性、恐れ、疑い、防御といったネガティブな成分によってできています。


したがって、時間の問題で、対立や軋轢を作ることになります。

それは、相手が誰でも起きることだと思います。

日常的に心の中でそのような場面を経験しながら、それを我慢したり、あるいは適当に話を合わせたりということが頻繁に起きているのですが、それが当り前になってしまっていて、その自覚さえありません。

そうやって誰とでも心理的な距離感を作り出していて、人間関係とはそんなものだというあきらめと、孤立感を持っている人もいるはずです。


それが会話による関係性の限界です。



相手と話をしていて、相手がこちらの話を全然聞いていないと感じることはありませんか。

そんな時の相手は、あなたの話を評価判断しているか、あるいはまったく違うことを考えているか、あるいは次に自分が話すことを考えています。

自分の発表に忙しく、しかもいつだって思考は(自我は)、自分が正しくて、間違っているのは相手なのです。

そのようにして、相手との間に分離感を深めていきます。


真実は、相手と自分は深い次元で一つにつながっています。

その気になれば一体感を感じあうことも可能です。

しかしそれは思考による会話の結果ではありません。


むしろ、何もしゃべらずに静かに過ごす時間や、お互いを感じあう時間がそれを作り出します。


会話はコミュニケーションを生み、沈黙はコミュニオン(交感)を生みます。

コミュニケーションは二つの別々なものの交流ですが、コミュニオンは一つのものの交感なのです。



コミュニオンは心を込めることでも生まれます。

ブログのような文字情報でも、この人は何を伝えようとしているのかと心で読んだとき、思考を超えた次元での共感を得ることができます


幸いにしてここに集まってくれる人の中には、そのような読み方をしてくれる人がたくさんいることを、コメント欄を見て感じます。


日常的な言葉のやり取りは、思考のやり取りですが、それも社会の機能の中では必要です。

ですが、すべてがそのレベルで終わってしまえば、一番大切な何かが失われてしまいます。



感じあうという、言葉を超えた世界で出会いたいものですね。




今日もここに来てくれてありがとうございました。



素敵な休日をお過ごしください。




PS

雲 黒斎さんとのコラボトークショー「イク時は一緒!」は、受付を終了しました。

たくさんのお申し込み、まことにありがとございました。

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