かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2009年04月

神を信頼するとはどういうことでしょう。 ひとつは神の存在そのものを信じるということです。 この森羅万象が、偶然の結果出来上がったものではなく、大いなる意志と秩序によって作られているということを信じられるかです。 地球に命が育まれ、人間が登場するま ... 続きを読む
神を信頼するとはどういうことでしょう。

ひとつは神の存在そのものを信じるということです。

この森羅万象が、偶然の結果出来上がったものではなく、大いなる意志と秩序によって作られているということを信じられるかです。


地球に命が育まれ、人間が登場するまでに進化を遂げてきたこれらの現象が、たまたま偶然の積み重ねでできたものではないということを理解するのはそう難しくありません。

生態系と呼ばれる命の循環システムは、とてつもなく緻密です。

いまや科学者たちも、人智を超えた何らかの高い意志が存在するということを認めなければ、何事も説明がつかないということを言い始めています。

科学はその性質からして「疑う」ということが前提にあるので、神のような存在を文字通り肯定するわけにはいかないとしても、この森羅万象の背後にある奇跡とも言える秩序の存在は認めざるを得ないのです。

したがって、この宇宙を司る何らかの巨大な力が存在するということを信じるのは、それほど突飛なことではありません。。



しかし、それでもなお、僕が言うところの、神を信頼するという地点には達していません。


そこには神の存在が持つ大きな特質が抜け落ちています。

その特質とは、「神は自分の敵ではなく、最も親密な味方である」ということです。


この宇宙は、あなたの敵ではありません。

味方なのです。

しかも、ただ漠然とした味方ではなく、しっかりとした自覚を持って、いつもあなたを見守り続けています。

それを信じられるかということです。



僕たちは自分という意識(自我)を持った瞬間に、「自分」対「自分以外のすべて」という感覚を持ちました。

自分が全体から切り離されて、単独に存在していると思ってしまったのです。


そして何より大切な自分自身を、外界から守ろうとしてきました。

どうやって生き延びるか、どうやって安全を確保するか、そのことに苦心して生きてきたのです。

常に注意深く周囲を見張り、自分の不利益になりそうな存在を遠ざけ、あるいは無視し、自分に都合のよさそうなものを引きつけ、そうやって生きてきたのです。

そこには、微妙な形で、自分以外のものは自分の敵であるという感覚がありました。

だから心を開けなかったし、心の底から安心したりリラックスしたりできなかったのです。

それもそのはずです。

自我は不信しか知らないのですから。



信頼しただけ自分を開くことができます。

信頼しただけリラックスすることができます。

信頼すれば、執拗に自分を守ろうとしていた緊張から解放され、「任せる」という感覚を得ることができます。

それは圧倒的に楽な感覚で、しかもやることなすことが、スムーズにうまくいきだします。


恐れに満ちた自分の考えで物事にあたるよりは、神にお任せしたほうがずっとうまくやってくれるのです。

その力は、常に自分を、そして全てを、よりよくする方向に働きかけています。


その作用を意識することが「神への信頼」です。





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6月7日の「いまここ塾 in 博多」へのお申し込みありがとうございました。

予想を上まわる反響で、その日のうちに定員に達してしまいましたので、もう一回り大きな会場に変更しました。
同じフロアーですので、すぐにわかると思います。

参加ご希望の方はコチラまで。


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そうか、今日は休日なんですね。 僕は自由業だから、平日も休日もあまり関係ないのですが、なんとなく気分が変わるのが面白いです。 今日は休日だからゆっくりしようなんて、いつもゆっくりしているくせに、そんな怠け者の自分を正当化できる日なわけです。 自由 ... 続きを読む
そうか、今日は休日なんですね。

僕は自由業だから、平日も休日もあまり関係ないのですが、なんとなく気分が変わるのが面白いです。

今日は休日だからゆっくりしようなんて、いつもゆっくりしているくせに、そんな怠け者の自分を正当化できる日なわけです。


自由業と言えば聞こえはいいですが、違う言い方をしたら定職につかずに、気の向くまま、その時やれることや、やりたいことをやってきているだけです。

いつも週休5日という感じです。

そうやって20年近く家族を養ってきたわけですから、僕も捨てたものじゃありません(笑)。


とはいうものの、それをやってきたのは僕ではないと知っています。

神にお任せしてきた結果です。


こういう言い方をすると、狂信的な危ない人間のように見えるかもしれませんが、事実そういう感覚で生きてきました。

長い間、数ヶ月先の仕事が保障されたことは一度もなく、言ってみればいつも失業中みたいな状態でしたが、将来を心配したこともなく、結果を振り返ってみても人並み以上の生活をしてきたように思います。


僕は無学ですし、知能指数も高くありません。

霊感もなければ、超能力もありません。

犬小屋も作れませんし、料理もできません。

お世辞も言えないし、世渡りも下手です。

自慢じゃないですが、何一つ取り柄はありません。


そんな男がなぜ心配もせずにこうして生きてこられたか、そして幸運な状態がいつも続いているか、それはズバリ神を信頼しているからだと思うのです。



今日はその話をしましょう。



人生を振り返ってみれば、誰でも転機となるような出来事や人との出会いがあったと思いますが、僕の場合、一番大きかったのは神との出会いです。

それは瞬時にして、それまでの人生観が一変するような大きな出来事でした。


神と言っても、白ヒゲをたくわえて杖をついたお爺ちゃんじゃありませんが、まぎれもなく神でした。


形はないのですが、存在はものすごくリアルです。

とても言葉に表すことはできませんが、どうしようもないくらい圧倒的で、この世のものとは思えないくらいに美しく、完璧で、全知全能で、限りなく優しく、惑星の運行から我々の細胞一つひとつの働きにまでその力を浸透させ、ありとあらゆる現象の源にして、唯一無二の絶対的存在です。


しかも、意識を持っていて、自分がやっているあらゆることを自覚しています。

信じられないかもしれませんが、あなたのことも僕のことも、そのすべてを知っています。


どんな生き方をしてきたかも、心の中に何を隠してきたかも、ほんの些細な小さなことまで全部お見通しなのです。

それでいて、僕たちに対して持っている感情は「愛」だけです。

どんなに重い罪を犯したとしても、決して罰することなどせずに、ただただ深い慈愛を通して、その人が幸せであることだけを願い見守っています。

自分(神)に対して、特定の拝み方や祈り方を求めるでもなく、たとえ信心がまったくない者にさえ、信心深い人と同じだけの愛を注いでいます。


え?こんなちっぽけで取るに足らない私のことを、神が全部知っているって?

数十億人の人間の全てを、いや人間だけでなく、ありとあらゆる存在の全てを知って、それを愛し見守っているって?

そんなことができるわけないじゃないか!!


そう思うのが普通ですよね。

でもできるし、実際そうしています。

僕らの想像をはるかに超えた、とてつもなく緻密で大きな力を常に発揮しています。


だって神ですから。


そんなとんでもない存在が、どこかにいるなんて思わないでください。

それは、あなたの中であなたを生かしている存在なのですから。

あなたはその存在をよく知っています。

あまりにも身近すぎて、あまりにも自分すぎて、いつも見逃しているだけです。


それはちょうど、水の中に生まれ、水の中に育ち、水の中で死んでいった魚が、その生涯にわたって水の存在に気がつかなかったのと同じことです。

あまりにも身近で、いたるところにあるので、見えないしわからないのです。


神とはそのような存在です。


でも、もう一度言います。


その存在は、意思を持ち、そしてこの世で起きていることの全てを自覚しています。

たんなる大いなるエネルギーではありません。

漠然とした存在ではないのです。


あなたが自分を自覚しているように、神は森羅万象の全てを、ものすごくクリアーな知性で自覚しています。



いまあなたがこれを読んでいることも知っていますし、何を感じているかも知っています。

そしてあなたがどうするかも。



あー、どうしよう。



このことを書きはじめたら、止まらなくなってしまって、このまま本が一冊書けそうな勢いです。




この続きはまた明日ね。

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窓辺で小鳥が歌を唄っています。 彼らの声を聞いて心が癒される人には、彼らの歌は役に立ちますが、そんな声が心に届かない人や、聞いてもうるさいだけの人には、何の役にも立ちません。 よく「人の役に立つ」という言い方をしますが、よく考えてみればおかしな話で ... 続きを読む
窓辺で小鳥が歌を唄っています。

彼らの声を聞いて心が癒される人には、彼らの歌は役に立ちますが、そんな声が心に届かない人や、聞いてもうるさいだけの人には、何の役にも立ちません。


よく「人の役に立つ」という言い方をしますが、よく考えてみればおかしな話です。

それが役に立つかどうかは受け取る側の問題だからです。


僕たちはつい自分の存在意義を確かめたくて、「人の役に立たなければ」と思いがちですが、そんなことを考える前に、自分が自分らしくあることで、自分の魂が喜ぶことが大切なのではないでしょうか。


誰ひとり、誰かのために存在している訳ではありません。

自分を犠牲にして人のために生きるよりは、自分が幸せであることを通して、自然にまわりに何かを与えているような存在でありたいと思います。


窓辺で歌う鳥のように、自分の心のままに、自分の人生を生きていたいと思うのです。



もしあなたが野に咲く花のように、誰が見ていようといまいと、ただ自分であることにくつろぎ、満たされていたとしたら、きっとあなたの周りの人たちは、あなたのそばにいるというだけで幸せな気持ちになることでしょう。


与えるというのは行為ではなく、花の香りのように、あふれ出る歓びが周囲の波動を変えていく、そんな現象だと思います。


有能な人になって社会から歓迎されるのもいいですが、無能な人として、歌い、踊り、生きていることそのものを楽しむような生き方が好きです。



鳥のように、花のようにありたい、今日この頃です。




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6月7日に福岡で「いまここ塾」を行います。

参加ご希望の方はコチラからお入りください。

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昨日、何気につけた映画チャンネルで「タイタニック」をやっていました。 久しぶりに見ましたが、あれ凄く引き込まれる超大作ですね。 最初に見た時は、気分はすっかりデカプリオでしたが、今回は船長になっていました。 映画ができて12年がたっていて、その間 ... 続きを読む
昨日、何気につけた映画チャンネルで「タイタニック」をやっていました。

久しぶりに見ましたが、あれ凄く引き込まれる超大作ですね。


最初に見た時は、気分はすっかりデカプリオでしたが、今回は船長になっていました。

映画ができて12年がたっていて、その間に心理的には30歳くらい歳をとったようです。

自分の年齢によって、映画の登場人物への感情移入先が変わるんですね。


ずいぶん感動して、ハラハラして、映画が終わってみれば、そこにあるのはただのテレビ画面。

文字通り幻想を見ながら、魂が架空の体験をしていたことになります。


本当はこの人生も同じことなのですが、それがわかるためにはテレビを消した状態が必要なのに、ほとんどの場合、心のテレビは死ぬまでつけっ放しになっているわけです。



ふふふ、僕のブログっていつもこういう展開になりますね。


その心のテレビは、他の言い方をすれば絶え間なく流れつづける思考です。

せめて自分が心のテレビを見ていることに気づくことが大切なのですが、それは思考を思考として認識することだと思います。


ところがこれが難しい。


思考を認識するには、無思考の状態を知るしかないからです。

そうしないと、思考が無思考の状態を考えているだけで、実際にはそれもテレビ番組の一部にすぎなくなっています。


それなのに自分は無思考を知っているような気になってしまうのです。


心のテレビを消して、思考がまったく存在しない世界・・・それが「空(くう)」と呼ばれている状態です。


その状態の特徴は、意識がいつも以上にクリアーで冴えわたり、とても開放的で気分がいいことです。

この状態にいると、思考がわいてきたときに、それをはっきりと認識できます。

ちょうど真っ青に澄み切った大空に、突然ひとひらの雲が流れてくるような感じです。


その雲は放っておけば、またどこへともなく消え去っていきますが、一度その雲と同化しようものなら、たちまちのうちに増殖して、いつの間にか大空は分厚い雲に覆われ、それが絶え間なく変化しながら、次々と物語を創り出していきます。

それが心のテレビであり、多くの場合、人はその世界の中で一生を終えてしまいます。


人生は波乱にとんだ大スペクタルドラマですが、終わってしまえば「タイタニック」の映画のようなもので、ただの幻影と戯れていただけのことです。



そこには幻影を見ていた主体に対する洞察が欠けています。

しかもあらゆる人生(幻影)の目的は、それを見ている主体を思い出し、それこそが唯一のリアリティーであったことを思い出すことなのです。

それは時空間を超えた不変の存在です。

不生不滅

不垢不浄

不増不滅、



そのために必要なことは「空」の世界を体験することです。


しつこいようですが、そこに至る道は瞑想しかありません。

自己流でもいいから、まずは毎日決められた時間を瞑想に費やすことです。

そうしないと四六時中、幻想の世界を見ていることになります。


精神世界を学んで、無我や無思考を知ったつもりになっても、それさえもドラマの一部になっています。

だから知識ではなく、実践しかないのです。



ドラマを超えていきましょう。


人生を超えていきましょう。



人生は、人生を超えるためにあるのですから。





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今日は月曜日。

また新しい一週間が始まります。


あまり夢に巻き込まれないようにしましょうね。



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明日の「いまここ塾」は20時から中城村の吉の浦会館です。

明後日は那覇市西町のてぃるるで、19時半から「水曜の会」が開かれます。


どちらも講演会ですが、誰でも入れますからお気軽にご参加ください。



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最近このブログは、さしずめ「目覚め同好会」みたいな様相を呈してきましたね。 昔ならば、ごく一部の突出した魂が厳しい修行の末にたどり着いた高い境地を、いまや僕たちのような普通の人間が、日常の中で垣間見ることができるようになってきました。 しかもそれはご ... 続きを読む
最近このブログは、さしずめ「目覚め同好会」みたいな様相を呈してきましたね。

昔ならば、ごく一部の突出した魂が厳しい修行の末にたどり着いた高い境地を、いまや僕たちのような普通の人間が、日常の中で垣間見ることができるようになってきました。

しかもそれはごく最近になってさらに加速され、以前から言われていたように、この地上に目覚めの連鎖が起き始めていることを実感させてくれます。

一昔前ならば見向きもされなかったこのような情報に、多くの人たちが興味を持ち始めてくれたことにも、時代の変化を感じます。


ビートルズがその昔、男子でありながら長髪のオカッパ頭で登場したとき、それを真似た若者が街角に現れ出し、最初は奇異にみえたそのようなファッションが、いつの間にか大衆のものになり、あっという間に短髪のほうが目立つくらいになってしまいました。

それと同じようなことが起きていくのではないでしょうか。

このブログに書かれていることが常識のようにあたりまえになり、僕たちがひとつの同じ命に生かされていて、いつも「いま」の中に生きていて、競争をやめて協力しだして、奪い合うのではなく与えあって、しかもそれぞれの個性の違いを認め合って、みんなが自分を尊重し、みんながまわりを尊重し、誰ひとり虐げられることもなく、愛と理解に基づいた世界ができあがっていくのです。


それは、偉大な政治家や、偉大な宗教家がリードするのではなく、まさに僕たち一人ひとりの意識が変化することによって起きていくのです。


そういえばジョンレノンの「イマジン」は、その世界のことを歌っていましたね。




想像してみて、天国はないって

やれば簡単だよ

足元に地獄はなく

頭上にはただ空があるだけ

想像してみて、みんなが

「今日」のために生きてるって


想像してみて、国家は存在しないって

難しくないよ

そのために殺したり死ぬことないよ

宗教もない

想像してみて、平和な人生を


想像してみて、財産はないって

できるかな

欲張りや飢えは必要ない

だって人はみな兄弟なんだから

想像してみて、みんなが

みんなが全世界を共有しているって


僕が夢を見てるって思うかな

でもそれは僕ひとりじゃない

いつか君たちも一緒になって

世界がひとつになってほしい





長い間この歌は反戦歌として歌い継がれてきましたが、実際には目覚めの歌です。

戦争反対を叫んでも、僕たちの意識が昔のままなら、あいかわらず世界は愚かな過ちを繰り返していくことでしょう。


あのころは、ジョンレノンは偉大だと言われていましたが、偉大なのではなく、僕たち当たり前の人間の代表であり、先駆者だったのです。

彼も目覚めの体験をしていたことは間違いなく、いち早く人間のそのような可能性を教えてくれていたのです。



いまやそれが現実のものとなろうとしています。


だって、世界の片隅に、ささやかですが「目覚め同好会」も出現し(笑)、組織に頼ることなく、個人が個人をサポートするかたちで、目覚めの連鎖が始まっているからです。



いまがその時です。



僕たちはこの先地球規模で起きていく、意識大変革時代の、生きた証人なのです。

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昨日届いたメールです 目覚めたみたいです。 なんかホッとして、懐かしい感じでした。 ああよかった。 帰る所というか、戻る所があって。 神様だったんですね。 わたし。 いや、皆も。 とても懐かしいです。 いいですね、この軽さが。 悟 ... 続きを読む
昨日届いたメールです



目覚めたみたいです。
なんかホッとして、懐かしい感じでした。

ああよかった。
帰る所というか、戻る所があって。

神様だったんですね。
わたし。

いや、皆も。

とても懐かしいです。





いいですね、この軽さが。

悟りとは、ものすごく当たり前の、あまりにも当たり前すぎて気がつかなかった真実と出会うだけの話で、人に自慢できるようなことは何もありませんし、経験した人はみな一様にそう思うのではないでしょうか。

その一方で、出会ったものがどんな言葉でも言い表すことができないくらい偉大で、圧倒的な喜びにあふれているというのもこれまた事実です。


その瞬間(目覚めの瞬間)、身体を稲妻が貫くような衝撃を感じたり、この世のものではない快感に包まれたりという話もよく聞きます。

いつでしたか、このブログのコメント欄に、「目覚めの瞬間には誰もがそのような快感を得るのでしょうか」というような類の質問が寄せられたことがあります。

いつかキチンとお答えしようと思いつつも、後からその質問を探してみたのですが、どこに書かれたものかわからなくなってしまいました。

実は、そのようなことはしばしば起きていて、せっかく質問してくれたのに、まるで無視したような形になってしまうことがあり、大変申し訳なく思っています。



さて、その方への答えですが「誰もが同じような快感を得るとは限りません」

それに、その瞬間の快感は二次的なもので、そこにフォーカスしてしまうと取り逃がしてしまうことがありますし、その快感に固執していつまでも体験の記憶を抱きかかえ、もう一度それを味わおうとして精神の物質主義に陥ってしまう危険性もあります。

一度開いてしまうと、その状態が当たり前になり、二度と同じ経験は起きないのです。

その後に同じ境地に達しているときも、あの時の衝撃がないという理由で、見過ごしてしまうこともあります。

何を隠そう、僕自身がそのような過ちの中で生きてきました。


目覚めの瞬間に感じる急激な開放感は、それまでの自分がどのように縮こまっていたかにもよります。

普段からオープンな心のスペースに住んでいる人は、確かに大きな喜びに包まれはしますが、それほど強烈なインパクトを感じることはないでしょう。



これも誰かの質問にありましたが、たとえば何気なく夕陽を見上げた時などに、自我を超えた境地(目覚めの境地)に至っていることも、よくあることです。

ところが、目覚めとはこういうものだという先入観があると、せっかくの体験を過小評価してしまい、再び目覚めを待ち続けるというようなことが起きるかもしれません。


繰り返しますが、とてもありふれた当たり前のことに気づくことであり、同時に大いなる喜びの中にいる体験です。


実はいまも僕たちはそのような状態の中にあります。

ただ、そことの接触を見失ってしまっているだけです。


ずっとそれと共にいるので、そうでない時を知らず、だからこそ見失っているのです。

「なーんだ、このことか」って、そんなふうに感じると思います。



言葉で伝えるのは難しいですが、何か感じてもらえたでしょうか。

文字情報でお伝えするのが、僕にとって最も大変です。


こうして毎日ブログに書いているような話を直接聞いてもらいたくて、去年あたりから各地で「いまここ塾」をやってきましたが、6月7日に九州の博多でやらせてもらいます。

どうぞお近くの方はいらしてください。

会場などの詳細は、週明けまでには決まると思います。



もし実際にお目にかかれるとしたら、そのご縁はこのブログが作ってくれたわけで、そのありがたさをいつも噛みしめています。


これからも心を込めて書いていきます。




今日もここに来てくれてありがとうございました。

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最近禅がブームだと聞きます。 禅に関する書籍がベストセラーになり、「禅ZEN」という映画が話題を呼んでいます。 この傾向はさらに強まっていくことでしょう。 人が心の満足を求めだしたとき、何か外側のものを信仰するのではなく、自らの内に真理を体得するZ ... 続きを読む
最近禅がブームだと聞きます。

禅に関する書籍がベストセラーになり、「禅ZEN」という映画が話題を呼んでいます。

この傾向はさらに強まっていくことでしょう。

人が心の満足を求めだしたとき、何か外側のものを信仰するのではなく、自らの内に真理を体得するZENのようなスタイルに惹かれるのは当然の流れだと思います



でも多くの場合、自己満足で終わってしまいがちです。

禅の本当の意味を取り逃がしてしまうのです。



「私は真理を求めている」

「私は内なるブッダを探して、今日も坐禅を組んできた」


そのような経験を、新しいコレクションのように持ち運び、いたずらに時間だけが過ぎ去っていきます。




<求めよ、さらば与えられん>

<尋ねよ、さらば見いださん>


これは聖書に出てくる真実です。

まずは求めることが道を開いてくれます。



<求めるな、さらば与えられん>

<尋ねるな、さらば見出している>


これも真実です。

求めなければ、最初から与えられていたことを見出すからです。



僕自身、長い時間を真理の探究に費やしてきました。

そしてある時気がつきました。

探究している限り、決して真理には出会わないということ。


探究はいつだって未来志向です。

「いまここ」にないものを探すのが探求です。

しかし真理はいつも「いまここ」にあるのです。



禅の美しさは、禅堂生活のすべてが「いまここ」を生きるための仕掛けに満ちていることです。

その所作の流れるような連続性の中に、瞬間が燃え続けています。


坐禅はその基本レッスンです。

もっともシンプルにして最高のレッスンだと思います。


しかし坐禅は、悟りに至るための修行ではありません。

なぜなら、何かに到達するための行為は、常に未来志向になってしまうからです。

坐禅は「いまここ」に在るための修行で、何かに成るためではありません。


僕たちのこの絶え間ない未来志向は、どこかで落とさなければなりません。

それを落とした時、「いまここ」の悟りがあるのです。



真理を探究するのではなく、真理を生きるのです。

すでに我々の存在そのものが真理なのですから。


本当の自分を探す必要もありません。

探している当人が本当の自分です。



食べるときはただ食べるという行為の中にいること。

自分が何を食べているのかを十分に自覚すること。

そうやって「いま」に100%いることです。


歩くときは、ただトータルに歩くこと。

そこに流れる微かな風、空を飛ぶ鳥、遠くで聞こえる子供たちの遊び声、路傍に咲く名もない花、そしていまここにある自分。

それ以上の何があるというのでしょう。


そこに満足がなかったとしたら、どこに満足があるのでしょう。

そんな生き方が、禅的な生き方なのです。



それは禅堂の中にだけあるのではなく、まさに僕たちの日常そのものが禅になりえるのです。




今日もここに来てくれてありがとうございました。

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