かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2009年05月

社会が常識のように信じている価値観を、もう一度見直すことができたら、救われる人がたくさんいるような気がします。 たとえば・・・ 自己実現をして、創造性にあふれ、豊かな人生を送りなさい。 本を読み、多くの経験をして、豊かな人間性を作りなさい。 ... 続きを読む
社会が常識のように信じている価値観を、もう一度見直すことができたら、救われる人がたくさんいるような気がします。


たとえば・・・



自己実現をして、創造性にあふれ、豊かな人生を送りなさい。

本を読み、多くの経験をして、豊かな人間性を作りなさい。




「自己実現」

「創造性」

「豊かな人生」

「豊かな人間性」



誰も否定できないこのような言葉のせいで、どれくらいの人が自信を失い、自分の人生を儚(はかな)んでいることでしょう。



僕は思います。

抜きんでた人になることなんかないって。

そういうゲームに参加したら最後、行き着くところはないですから。



人生で最も崇高な行為、それは、あるがままの自分を愛すること。

立ち止まって、リラックスして、自分を両手で抱きしめてあげて、「大変だったね、よく頑張ってきたね」って、心から伝えてあげる。

そして、そのままの自分をただ愛してあげる。


条件を出さないで、理想と比較しないで、ただあるがままを愛してあげる。


そうすれば、人を愛せるようになります。

そうすれば幸せになります。

そうすれば本当の豊かさを手に入れられます。


それは自己実現だとか、豊富な経験や知識とは関係ありません。


たとえ、終世病院のベッドで暮らす人生だとしても、本当の豊かさを生きることができるのです。



なぜか今日はそんなことを思いました。

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昨日、こう宣言しようって伝えましたよね。 「あー幸せだなぁ」 誰に伝えたかったんでしょう。 もちろん幸せじゃない人にです。 人は自分を幸せじゃないと思われるのを嫌います。 だから、どんな問題を抱えていようと、心の痛みを感じていようと、外側 ... 続きを読む
昨日、こう宣言しようって伝えましたよね。

「あー幸せだなぁ」


誰に伝えたかったんでしょう。

もちろん幸せじゃない人にです。



人は自分を幸せじゃないと思われるのを嫌います。

だから、どんな問題を抱えていようと、心の痛みを感じていようと、外側には幸せそうな顔をするのが普通です。

みんなが幸せの仮面をつけて生きています。

そんな世の中で生きているから、人はまるで自分だけが不幸のような気がしてしまうのです。


でも大丈夫。

誰も幸せじゃないですから(笑)


僕は、この世には2種類の人しかいないと見ています。

その2種類とは、「不幸な人」と「幸せな人」じゃありません。

「不幸な人」と、「不幸じゃない人」です。


それは、世界情勢とよく似ています。

世界は、「戦争の時」と「平和な時」があるのではありません

「戦争の時」と、「戦争をしていない時」があるだけです。


戦争をしていない時と平和は違います。

平和とは、あらゆる争いと武器を放棄し、共に協調している状態です。

人類はいまだに、平和を経験したことがありません。



同様に、人類はいまだに幸せを経験したことがありません。

そこにあるのは不幸と、不幸じゃない状態だけです。


不幸じゃない人と、幸せな人は違います。

不幸じゃない人は、単に不幸が休止中なだけです。

それは一時的に思考が穏やかになっているだけで、あいかわらず思考は存在しています。

それはまたちょっとしたことで荒れ狂う可能性があります。

たとえば、会社がつぶれそうになるとか、大衆の面前で侮辱されるとか、それくらいのことですぐに動揺し、不幸になります。


幸せな人とは、思考を超えた自己の本質を感じ続けている人です。

そこにしか幸せと呼べる状態はありません。

したがって、この世には不幸な人と、不幸じゃない人の2種類がいるのです。



「幸せだなぁ」って言い聞かし、実際にそう感じるためには、思考を超えること、考えをやめることです。

しかし、これが難しい。


考えないと言うと、どんな状態を思い浮かべますか。


まずは考える人を見てみましょう。




























うーん、なるほど・・・よく考えていますね(笑)

しかも、どう見ても幸せそうじゃない。




じゃ、考えない人は?
































あはは、確かに幸せそうです。




でも、考えないことと呆けているのとは違います。


そこには不断の自覚があります。

むしろ頭は冴えわたっています。



あえて言えば
































やっぱり、瞑想は大切ですね。

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ブログに何か書くと、必ずと言っていいほど片手落ちになっていて、そこを埋めなきゃ誤解があると思っているそばから、敏感な読者がピンポイントでそこを突いてきます(笑) もっと熟練した読者はそんな僕の限界までお見通しで、さりげなくコメントでフォローしてくれたり ... 続きを読む
ブログに何か書くと、必ずと言っていいほど片手落ちになっていて、そこを埋めなきゃ誤解があると思っているそばから、敏感な読者がピンポイントでそこを突いてきます(笑)

もっと熟練した読者はそんな僕の限界までお見通しで、さりげなくコメントでフォローしてくれたり、やんわりと見過ごしてくれたりします。


こうやって毎日書いていると、「僕の言葉を鵜呑みにしないで」という思いと、「僕の話を鵜呑みにしたらいい」という思いと、両方あります。

前者は言葉という道具に惑わされないでほしいからで、後者は実際に体験しないとわからないことでも、もし100%信頼して丸のみできたら、それは体験したことと同じ結果をもたらすからです。

こんなことさえ、書きながら正確に伝わっているだろうかと迷いが出てきます。



さて、昨日のカキコに「幸せになるにはどうしたらいいですか」と一言ありました。

ものすごくダイレクトな質問ですよね。


だったら僕もダイレクトに答えましょう。

「幸せだと思えばいい」

それだけです。


今のままで幸せだと思えるくらいなら苦労はしないと思うかもしれませんが、苦労しなくていいんです。

ただ思おうとするだけです。


絶対できないと言い張る人は、心から完璧に思おうとするからです。

半信半疑でいいんですよ。


「あー幸せだな」



心は足りないものを探す名人なので、なぜ今幸せでないかを訴えます。

「お金がないじゃないか!」


だったらこう言うんです。

「あー、お金がなくて幸せだな」


そして、なぜお金がなくて幸せなのか、自分で考えてみてください(笑)


僕の観察では、お金持ちよりも貧乏人のほうが幸せなこともたくさんあります。

お金を稼いでいる人は、例外なく「もっと欲しい」と思っています。

欲しいという思いは心を貧しくし、稼げば稼ぐほど心が貧しくなっていきます。

あなたより貧しいお金持ちはたくさんいます。


お金がないって、さっぱりしていて気持ちがいいなーって思いませんか。

それに、自分に寄って来る人は、金目当てじゃないでしょ?

金持ちは、自分に寄ってくる人間はみんな金目当てだと思うから、うがった見方でしか人を見れなくなります。

そんなふうに思わなくていいなんて、なんて幸せなんだろうって。


え?今月の電気代ですか?

自分が払おうと思えば払うでしょうし、払わなければそれなりに何とかなりますよ。


何ともならなければ、何ともならないなりに、何とかなりますよ。


大丈夫ですよ、どうせ死んでも死なないんだから(笑)


とにかく現状がどうであれ、「幸せだなぁ」って言ってみることです。

何度も言ってみましょう。


それに本当はね、僕たちはみんな心の底で、いつだって100%の至福を感じているんですよ。

それが僕たちの本性だからです。

だから無理やり思うのも、あながち嘘じゃないってことです。



僕の言葉を鵜呑みにできたらいいですね。



「あー、幸せだな」

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まだ始めたばかりですが、那覇市「てぃるる」の和室で、水曜の会をやっています。 これは囲炉裏を囲んでお話しするような気持ちで、みなさんからの質問に答えたり、テーマをもらって話をしたりする目的で始めたものです。 昨夜は二つのテーマをいただきました。 ... 続きを読む
まだ始めたばかりですが、那覇市「てぃるる」の和室で、水曜の会をやっています。

これは囲炉裏を囲んでお話しするような気持ちで、みなさんからの質問に答えたり、テーマをもらって話をしたりする目的で始めたものです。


昨夜は二つのテーマをいただきました。

ひとつは「死」について。

もうひとつは「時間」についてです。


このふたつには共通点があります。

それは、両方ともに幻想であること、そしてこのふたつの幻想がその他のあらゆる幻想の元になっているということです。


死を幻想だと見抜くには、生死を超えた意識を体験するしかありません。

いつも言うように、僕たちは体験したものしか知り得ないからです。

本で読んだり、人から聞いたりしても、それは単なる知識であり、自分にとって仮説の域を出ません。


生死を超えた意識の体験は、同時に時間を超えた意識の体験でもあるので、このふたつの質問は、同じひとつの体験によって答えを得ることができます。

その意識には、いまでこそ頻繁に出入りすることができるようになり、自分にとってあたりまえの次元になりつつありますが、最初にその体験が訪れた時は、そのあまりの美しさと圧倒的な喜びに言葉を失いました。

そして、それまで学んできた宇宙の真理が、真実であったことをありありと体験しました。


それはインドやチベットの覚者の言葉だったり、聖書や経文の言葉だったり、ありとあらゆる真理の言葉達が洪水のように襲いかかってきて、いましている体験がまぎれもなく宇宙真理そのものであることを証明してくれました。

「あなたが到達したとき、私は証人になろう」というキリストの言葉の意味が、まさにこのことだったと思いました。


と同時に、僕自身もキリストや仏陀の証人になりました。

彼らの存在が真実であること、そして僕たちの存在も、彼らと同じ次元に、いつも「いまここ」にあることを知りました。

生まれることも死ぬこともなく、永遠の命によって生かされていることを。



死がリアルなものに見えるのは、僕たちが肉体と自己同化してしまったからです。

自分が肉体をはるかに超えた存在だということを知れば、死への恐怖は消えてなくなります。

僕たちは死なないからです。


死こそが最大の幻想です。


僕たちは永遠に「いまここ」に存在しています。

というよりは、僕たちこそが「いまここ」なのです。




今日の最後に一休禅師の歌を紹介します。

自らの死についての歌です。



死にはせね どこにも行かぬ ここにいる

尋ねはするな ものは言わぬぞ




死という神秘を、言葉で説明しても、聞いた本人がその次元を体験するまでは意味のないことなので、どんな言葉も不要だということです。

そして彼は死んでも「いまここ」にいることを宣言したのです。


ソクラテスも同じような言葉を残していますが、それはまた別の機会に紹介します。




今日もここに来てくれて、ありがとうございました。



・・・・・・・



7月「大阪いまここ塾」の詳細です。

参加ご希望の方はコチラから。

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昨日ね、いまここ塾で思い切り宗教批判をやったんです。 タブーに鋭く斬り込むことができて、よし明日のブログはこの調子で勇気を持って全部書こうと思って、そのテンションが下がらないうちにって、夜中の3時ころまでかかって書いたんです。 これはちょっと過激すぎ ... 続きを読む
昨日ね、いまここ塾で思い切り宗教批判をやったんです。

タブーに鋭く斬り込むことができて、よし明日のブログはこの調子で勇気を持って全部書こうと思って、そのテンションが下がらないうちにって、夜中の3時ころまでかかって書いたんです。


これはちょっと過激すぎたかなとか、ここはしっかりと押さえておく必要があるとか、きっと信者さんから脅迫文が届くはずだとか、いつもの阿部さんらしくないなんて言われるかもとか、あーでもないこーでもないって・・・

それでね、今朝起きて読み直してみたら、どうでもいいことばっかりで(笑)


昨夜は、まるで正義の使者みたいになって頑張って書いていたけれど、何をそんなに気張っていたのか、朝になって読み返したら可笑しくてね。


昨夜の僕と、今朝の僕はまるで違う人なわけです。



やっぱり「自分」という存在は、その時々の刹那的な現象で、一貫して継続している「自分」なんかいなくて、僕らというのは固定された実体じゃなくて、その時その時を流れている川のような存在だと思いました。


ちょっとした感情やこだわりで、まったく違う考えや感情を持つし、それはこれからだってどう変化していくかわからないわけで、だからその瞬間の自分を捉まえて、「私はこういう人間です」なんて、何ひとつ言えないのだと思います。


「自分」なんていう実体は存在しないのです。

せいぜい、いまの自分はこうですとしか言えないわけです。


そう思うと気が楽ですよね。

僕は頑固でもあり柔軟でもあり、優しくもあり冷たくもあり、正直でもあり嘘つきでもあり、知的でもあり愚かしくもあるのです。


全部が自分だし、どれも自分じゃない。



さあ、今日もそんな予測不能の自分を生きるとしよう。



みなさんもいい一日をね(^o^)/

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ごめんなさい。 今朝は僕の頭がお休みみたいで・・・ こういうときに無理無理書いても、きっと満足がいく内容にはならないと思うので、今日は書かないでおきます。 また明日ね。 ... 続きを読む
ごめんなさい。


今朝は僕の頭がお休みみたいで・・・


こういうときに無理無理書いても、きっと満足がいく内容にはならないと思うので、今日は書かないでおきます。



また明日ね。

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多くの人が精神世界や霊性を学び始めています。 物質的な充足が必ずしも人を幸せにする道ではないということに気づき始めたのです。 このように書くと、人類が進歩しているように見えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。 あいかわらず人が、いま以外 ... 続きを読む
多くの人が精神世界や霊性を学び始めています。

物質的な充足が必ずしも人を幸せにする道ではないということに気づき始めたのです。

このように書くと、人類が進歩しているように見えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。

あいかわらず人が、いま以外の何かを求めていることに変わりはないのです。



自我が一番好きなのは、霊性を高め、よりスピリチュアルな人間になっていくことです。

そうすれば、神に、目覚めに、悟りに近づいて行くのですから、そこんじょそこらの人とは訳が違います。

それは、他の人々よりも自分のほうが優れているという感覚を与えてくれます。

やっと自分のことも認めることができそうです。


自我は極めて狡猾です。

精神霊的な道でさえ、自らを飾る道具にしてしまうのですから。



人間には2つの状態しかありません。

目覚めているか、夢を見て眠っているかです。

十分に注意しなくてはならないのは、目覚めた夢を見ることが可能だという点です。

それは自分の霊性が徐々に上がっているという感覚を持たせてくれます。

しかしその感覚は、自分の特別さを増長させるだけで、真の決着にはなりません。


真の決着は、ズバリいまここで目覚めることです。


少しずつ成長して、いつか目覚めようなどと思わないことです。

それは相変わらず時間という幻想の中で見ている夢だからです。


そこにあるのは、自分は何かに成らなくてはいけない、いま以外の何かが必要だという考えです。

このような態度が、目覚めを永久的に先延ばししています。



「いま」がその時です。


唯一大切なのは、自分を高めることではなく、いまを生きることです。

どうやっていまを生きるのかなどと考えないでください。

意識の全てを、いまこの時に向けて生きるだけです。

考えないでやるのです。


いま以外の時間を想定し、段階的な成長をイメージしてはだめです。

自分が進歩しているなんて思わないことです。

僕たちはいつだって、いまあるがままの自分でしかないのですから。


あなたは、いまこの時に、たちどころに悟ることができます。

しかし、いまを逃せば、永遠に悟ることはないでしょう。



いますでに、あるがままの自分でゴールに辿り着いていることを知ること、それが悟るということです。


そのために一定の条件を満たしたり、自分をよりよくしたりする必要もありません。




目覚めるのはいまですよ。




・・・・・・・・・・・・・・


明日の「いまここ塾」は201回記念です(笑)

もうお花はいりませんからね。


明日と明後日は、那覇市の「てぃるる」(866-9090)の和室で19:30からの開演です。

一期一会。

最初で最後の201回目にようこそ。

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