かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2010年07月

さっきまであなたの中にあった波動が、いまは僕の中に入り込んでいる。 その時、僕はさっきまでのあなただ。 ひとつの固定された人格が継続的に生きているんじゃなくて、それは次々と入れ替わっている。 美しい詩を書いた同じ人が、次の瞬間、口汚く他者を罵( ... 続きを読む
さっきまであなたの中にあった波動が、いまは僕の中に入り込んでいる。

その時、僕はさっきまでのあなただ。


ひとつの固定された人格が継続的に生きているんじゃなくて、それは次々と入れ替わっている。


美しい詩を書いた同じ人が、次の瞬間、口汚く他者を罵(ののし)る。

それが現象界の真実。


多くの人が自分を認められないのは、低いレベルの波動が時折自分を乗っ取るからだ。
 
でもね、みんな同じなんだよ。

言わないだけでね。


自分の中にいろんな面があるんじゃなくて、いろんな面がいろんな人を出入りしているだけ。

あなたの中に現れるのは、人間が共有している様々な波動であって、あなただけの独占物じゃない。

だから安心してね。



自分を認めるというのは、人類全体を認めるってこと。

だって、あらゆる人が、あらゆる可能性を携えているのだから。



あなたの中にあるものは、全部僕の中にもある。

あなたは僕だし、僕はあなただ。

美しさも醜さも両方持っている。

それはどちらか片方では存在できない。

醜さがなくて、どうして美しさが存在できるだろう。


ふたつでひとつ。

なにもかも、ふたつでひとつ。

だからプラスだけになろうなんて思わないでね。

なれやしないから。


あるがままでOKって、そういう意味なんだよ。


うまく伝わったかな。




これからも自分を向上させようと奮闘するか、それとも潔くあきらめてあるがままを認めるか。


あるがままを認めると、これ以上成長しなくなっちゃうって考えてない?

それは誤解だよ。

あなたは永遠に、いまあるがままのあなた以外にはならないのだから。


この真実を見抜くのは、自分への最高のプレゼントになる。



あんな人も、こんな人もいやしない。

あんなときや、こんなときがあるだけ。



みんなで楽しくやろうよ。

鎧を脱いで無邪気に遊ぼう。



もうそんなこと、どうだっていいじゃない。

いまを陽気に生きようよ。


この世は宇宙の戯れ、リーラだ。

世界はどこにも向かっていないし、目的もない。


ただ、いま、こうしてあるがままにあるだけだよ。

いつだってね。





   

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みなさんが興味を持ってくれた「タントラへの道」に関して、裏ブログにエッセイを載せたことがあります。 今日はその文章を転載します。 いまから3年前の、2007年10月に書いたものです。 ・・・・・・・・・・・ 最初にこの本に出会ってよかったの ... 続きを読む
みなさんが興味を持ってくれた「タントラへの道」に関して、裏ブログにエッセイを載せたことがあります。

今日はその文章を転載します。

いまから3年前の、2007年10月に書いたものです。


・・・・・・・・・・・



最初にこの本に出会ってよかったのは、精神の道が決してドラマチックなものではなく、むしろ淡々とした、たいくつさを伴うものだということを教えてもらったことです。


僕たちは自分の精神性を高めていく途上で、奇跡や劇的な出来事が起きる事を期待してしまいますが、実際にはそんなことはなく、ただシンプルであたりまえな人間になっていくことにすぎません。


霊能力が発揮されたり、超人になったり、高潔な聖人になったりすることと、精神性が高まって真理を獲得することとは何の関係もありません。

僕らは、特別な誰かになろうとし、自分の人生に特別な出来事を期待してしまうのです。



精神性が高まるというのは、自我が薄らいでいくということです。

ところが自我というものは非常に狡猾で、精神性の高まりさえも自分を飾るアクセサリーにしてしまいます。

それを「精神の物質主義」と呼びます。



精神の道は、誰も見ていてくれません。

誰も誉めてもくれません。

それは孤独な道なのです。


幾重にも身にまとった自己欺瞞をひとつひとつ見つめ、皮膚を剥ぐような思いで自分を裸にしていく。

それは苦痛と屈辱にまみれながらの、自分との戦いなのです。



「タントラへの道」は、そんな基本を徹底的に教えてくれました。

チョギャム・トゥルンパ師の「タントラへの道」に最初に出会えたことは幸運でした。

今の僕の考え方に大きな影響を与えています。

宗教、経典、霊感、教祖、聖者、覚者といったシンボルに惑わされなくなりました。

あるがままの自己と共に一人立つところが本当のスタートです。



こんな僕に対してさえ何かしらの霊的幻想を抱き、高く評価して執着しようとする人がいます。

そのような人は、いずれ自分の美学に反する側面を僕の中に見たとき、僕から去っていく人です。


勝手に恋をして、勝手に失望していくのです。



トゥルンパ師は言います。

精神の道を歩きたいのであれば、まずは徹底的に希望と期待を捨てることから始めろと。

すがりつくものが何一つ無い、そんな絶望的状況の中で、初めて教えが身についていくと。


でも多くの人は、それをやろうとしません。


自分の可能性を信じ、自分を導いてくれる崇高な魂の持ち主を待ち望んでいるのです。

そうやって自我は、精神の道さえも、自分を飾る新しいコレクションに変えてしまうのです。

それが「精神の物質主義」です。




僕はチベットの僧院で修行してきたんだ。

それはそれは神秘的な毎日だったよ。

静寂の中で何度も次元を超えた世界を垣間見たんだ。

規則正しい生活、深遠なグルの教え、幾世代にわたり大切に守られてきた経典。

どれもこれも神聖で素晴らしい体験だった。

君も行ってごらんよ。




このような態度も「精神の物質主義」です。

経験を物のように持ち運んでいるだけで、いまここの、あるがままのリアリティーとは乖離しています。



タントラと言うと、ちょっと詳しい人はすぐに、セックスを教義に取り入れた宗教だと連想します

たしかにタントラはセックス行為を修行の中に取り入れている部分があります。

でもそれは一定期間の修行を終えた人達、もっと言えば性欲を100%コントロールできる段階の人たちによって扱われてきたテクニックです。



ではなぜ彼らはセックスを使うのでしょうか。


それはタントラが、「生」に対して全面的肯定の立場をとっているからです。

何かを抑圧するのではなく、自然が与えた人間の可能性を全部引き出して、意識の高みに昇ろうとするのです。


したがって、タントラの修行は身体的なものが多いのです。

通常宗教的修行の多くは、精神的なものや霊的なものが多いのですが、タントラは違います。

それはタントラが、極めて現実主義だからです。


実際のところ、僕たちは身体しか知らないのです。

多くの人達は、霊だとか、魂だとか、あたり前のように知っているつもりでいますが、それは知識として知っているるだけで、あるいは感覚として漠然と知っているような気がしているだけで、本当に正直に自分を見つめれば、実際に確信できるのは身体だけです。


だからといって、霊や魂がないと言っているのではありませんが、彼方なる次元に行き着いて初めて知る事を、むやみに知ったかぶることは無意味だとタントラは言います。

そのような観点から見てみますと、タントラはあらゆる宗教の中でも、もっとも現実的なアプローチをしているように思います。



・・・・・・・・


この記事がアップされるころ、僕は飛行機の中にいます。

今日から博多に入り、長く待っていてくれたみなさんに瞑想伝授のサポートをして、週明けにそのままタイに向かいます。



May you be in peace today.


Thank you for reading.




多くの人に届きますように

   

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昨日は思いがけない嬉しい事があってね。 いまここ塾の会場に行ったら、受け付けに一冊の本が届いていた。 なんとその本は 「タントラへの道」 持ってきてくれたのは女性だという事しかわからず、短い手紙が添えてあったけれど、名前も書いてなかった。 ... 続きを読む
昨日は思いがけない嬉しい事があってね。


いまここ塾の会場に行ったら、受け付けに一冊の本が届いていた。

なんとその本は

「タントラへの道」


持ってきてくれたのは女性だという事しかわからず、短い手紙が添えてあったけれど、名前も書いてなかった。

一昨日この本が手に入らないとブログに書いたから、こうして持ってきてくれたのだろうけど、きっと今日もこのブログを読んでくれていることでしょう。

どなたかはわかりませんが、お気持ちをありがたく頂きます。

大切にします。



この本をきっかけに出会ったのが向和尚。

厳しい修行で知られる臨済宗方広寺派の、いまの教学部長さん。

真理を体得したひとりで、毎年ヨーロッパに招かれ、現地のリーダー層の参禅指導をしている禅師だ。


あるとき、僕のセミナーの生徒さんたちに講話をしてもらった。

そしたら向さん、こう言った。


「マライヤ・カリーはいい」


カレーの種類かと思ったら、歌手のマライヤ・キャリーのこと。


「彼女が歌う『ヒーロー』は、まさに禅の心だ」


は?どういうこと?


「あの歌は『主人公』の歌だ」




さて、ここで解説です。

主人公というと、僕たちは映画や小説の主人公を思い浮かべるけれど、この言葉、もとは禅語なんです。

自己を超えたところにある、本当の自分。

禅では「本来の面目」とも言います。

本当のあなたは、あなたが感じている自分よりも、はるかに素晴らしく大きな存在だという意味です。

それをマライヤ・キャリーが歌っていたわけです。



それを聞いて、面白そうな和尚だと思った。

そこで僕の宝物だった「タントラへの道」をプレゼントした。

先日も書いたように、この本は多くの人たちに配ってしまって、最後の一冊だった。

もしかしたら、この人は初めてこの本を理解してくれるかもしれないと思った。


すると、すぐに翌日電話があった。


「なんですかこれは!すごい本ですね!」


嬉しさのあまり、すぐに方広寺に出かけて行って語り合った。

当時は誰も判ってくれなかった僕の話を、全部「そのとおり!」と肯定してくれた。

僕も向さんの話は全部腑に落ちた。


そこで意気投合して、二人で禅スクールを開催した。

それが「いまここ塾」という名前になった。


僕が自分の体験談や気づきを等身大で話し、その後で向さんが「いま阿部さんが話したのは、禅の伝統ではかくかくしかじか・・・」とつなげるスタイルだった。

これは僕が沖縄に移住する直前までやっていた。



さて、本が二人の縁を深めてくれてからずいぶん長い時が経ったけれど、その向さんと二人で本を書かないかというお誘いを頂いた。

僕の最初の本を出してくれた、ダイヤモンド社の関係者さんからだ。

この話があったのは今年の4月で、本当ならばもう完成してるはずが、まだ何も手をつけていないのは、この数ヶ月間あまりにも忙しかったから。

でも向さんとなら、いままでにないタイプの本を書ける自信がある。


意識しなくても、お互いに真理を分かち合えば、自ずと禅の心に通じる本になると思う。

今年の最後の仕事は、この本の執筆になるだろう。


本と言えば、今年になって3冊も刊行していただいたが、4冊目の発売が決まった。

ソフトバンク(ソフトバンク クリエイティブ)から9月発売とのこと。

このブログでも伝えてきた究極のメセージが、目白押しに並んでいる。


タイトルは

「さとりの授業」(担当者さんが考えてくれました)


お楽しみに。




誰もが主人公。

誰もが、自由自在に生きる力を持っている。

(自在とは「自分が在る」ということ。ただしこの場合の自分とは、普段自覚している自分ではなく、主人公のこと)

自在を見失わなければ自由に生きられる。


どんな苦難の中にあっても、自分の中のヒーローを見失ってはいけない。

あなたは永遠不滅の主人公なのだから。




最後に

ターコイズブルーさん、僕たちが付いているよ。

いつも応援しているから。




今日もここに来てくれてありがとうございました。





多くの人に届きますように。

   



・・・・・・・



今夜は水曜の会です。

レクチャーと瞑想の会です。

来週からタイに行き、しばらくお休みするので、今夜来てください。

誰でも参加できます。
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最初はごく一部の人の間でささやかれていた言葉が、いつの間にか時流に乗り、言葉だけが独り歩きをする場合があります。 その言葉を使う人の底辺が広がるに連れ、最初に持っていた深遠な意味が失われ、表面的なニュアンスがそれにとって変わります。 その代表選手が ... 続きを読む
最初はごく一部の人の間でささやかれていた言葉が、いつの間にか時流に乗り、言葉だけが独り歩きをする場合があります。

その言葉を使う人の底辺が広がるに連れ、最初に持っていた深遠な意味が失われ、表面的なニュアンスがそれにとって変わります。


その代表選手が「すべてはひとつ」という言葉でしょう。

一昔前は、その言葉自体があまりにも突飛で、誰一人真剣に耳を傾けようとしませんでした。

かすりもしなかったのです。


ところが最近は、多くの書物やサイトなどの影響で、「すべてはひとつ」と頭で理解する人が増えました。

僕が「すべてはひとつだ」と言えば、「そうそうそのとおり」とすぐに頷いてくれます。

と同時に、「すべてはひとつ」という言葉を引き合いに出して、精神世界ブームの安直さや危うさを指摘する声もあります。

どちらも、この言葉が独り歩きをした結果生まれたものです。



昨日、ふくろうさんのコメントがありました。

論理的で、好感が持てる文章なので、そのまま載せさせてもらいます。

そうそう、昨日のコメント欄はとても有意義でしたね。

生意気ですが、みなさんの精神性の高さを感じました。



さて、ふくろうさんのコメントです。


「すべてはひとつ」「全体はひとつ」という考えに日ごろの疑問。

人は自我に苦しむ。

だから、私たちは、この自我をどうにかすれば道がひらけるんじゃないかとじたばたする。

そして、自我がどうにかなった先になにか見えたとする。

それがたとえばユングなんかのいう集合的無意識とか、唯識のほうで聞かれるアラヤ識とか蔵識とかいうやつかもしれない。

で、そこから「すべてはひとつ」という感じ方がくるのかもしれないが、その集合的無意識なるものがたとえば他者の集合的無意識とネットワークをもっているならば、「すべてはひとつ」もありかもしれない。

けれど、そうだろうか。

Aさんのそれは、Bさんのそれとはちがう、ということはないだろうか。

「すべてはひとつ」、ではなくて、「それぞれの人はそれぞれに別のすべてをもっている」、という言い方がただしくはないだろうか。




うんうん、なるほど、そうだよね。

最初と最後は、僕もふくろうさんと同意見です。

苦しみの元である「自我」を何とかしようと、もがいた先に何かが見えた。

そういうことってあると思います。



>そしてそこから「すべてはひとつ」という感じ方がくるかもしれない


ここが少し違います。

「すべてはひとつ」と感じるのではなく、「すべてはひとつ」という存在状態に成るのです。

だからこそ断定的に、「すべてはひとつ」と言い切るわけです。



しかし、ここで問題が残ります。

「すべてはひとつ」になったとしたら、それを認識した者は誰なのか。

もし「すべてはひとつ」を認識している自己があれば、そこにはまだ「認識と対象」という二元性が存在します。

もし認識する自己がなければ、いったいその経験を報告するのは誰なのでしょう。


だから「知る者は言わず、言う者は知らず」となるのです。


でもここで終わるわけにいきません。

知った者は有限なる言葉を駆使して、言葉にできない矛盾に満ちた世界を解説しだします。

それがいわゆる経典の類であり、一部のスピ系書物です。



>自我がどうにかなった先になにか見えたとする。

>それがたとえばユングなんかのいう集合的無意識とか、唯識のほうで聞かれるアラヤ識とか蔵識とかいうやつかもしれない。



ユングの集合的無意識と、唯識(ユイシキ)思想の阿頼耶識(アラヤシキ)が、同じものを指しているのかどうか僕は知りませんが、ここで簡単に唯識思想について説明しておきます。


僕たちの通常の生活は、五感と意識(マインド・思考・感情)によって成り立っています。

五感から仕入れた情報を、意識が組み立て、そこに「自己」と「世界」を作り出します。

そこまでが、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識、と呼ばれる六識です。


唯識思想では、さらにその奥に末那識(マナ識)と阿頼耶識(アラヤ識)があるとしています。

末那識(マナ識)は、先日のユリイカで伝えた潜在意識の観念、自己本位の色眼鏡みたいなもので、その奥の根源が阿頼耶識(アラヤ識)です。

末那識(マナ識)で煩悩やカルマが生じ、阿頼耶識(アラヤ識)に貯蔵され、それが各々の人生を作り出しているというわけです。


実は、阿頼耶識が終点ではありません。

さらに深い領域があります。

阿摩羅識(アマラ識)、乾栗陀耶識(ケンリツダヤ識)です。

仏性とか、宇宙意識とか、神とか、真理とか呼ばれる領域です。

そこにおいては、自己も世界も、ありとあらゆるものが消えうせ、歓喜と自由と安心と感謝と大いなる智慧によって満たされています。


こう言うと、なにやら凄い世界のようですが、それは僕たちの存在の源であり、どこか遠くにあるわけではありません。

あなた自身が「それ」であり、すべての存在はそこから生じています。

そこには何の境界もなく、まさに「すべてはひとつ」です。



>Aさんのそれは、Bさんのそれとはちがう、ということはないだろうか。

>「すべてはひとつ」、ではなくて、「それぞれの人はそれぞれに別のすべてをもっている」、という言い方がただしくはないだろうか。


そうですね。

この世の現象には、何一つ同じ存在がなく、それぞれに補い合いながら全体を作り出しているのも事実です。

この「独自性」と「唯一性」という、正反対の二つの真実が、存在の神秘なのではないでしょうか。





さて、同じように独り歩きした言葉に、


「すべては最初から決定されている」


「何が起きても大丈夫」


「自己は存在しない」


「時間も空間も錯覚だ」とかがあります。


これなども、阿摩羅識(アマラ識)や乾栗陀耶識(ケンリツダヤ識)の領域で体感することであり、意識や末那識(マナ識)で解釈する事ではありません。



今日は聞きなれない言葉がたくさん出てきて読みづらかったかもしれませんね。





多くの人の目に留まりますように、ご協力お願いします。

   



・・・・・・・



今夜は那覇でいまここ塾、明日は水曜の会です。

お気軽にご参加ください。

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講演会などでよく聞かれることがあります。 自分の家族や友人に、この情報を届けたいのだけれど、聞く耳を持ってくれない、どう伝えたらいいかということです。 僕も最初のうちは、そんな思いを持っていました。 その手の本をたくさん買い集め、友人に配ったりも ... 続きを読む
講演会などでよく聞かれることがあります。

自分の家族や友人に、この情報を届けたいのだけれど、聞く耳を持ってくれない、どう伝えたらいいかということです。


僕も最初のうちは、そんな思いを持っていました。

その手の本をたくさん買い集め、友人に配ったりもしました。

いまでは入手困難な、チョギャムトゥルンパの「タントラへの道」(めるくまーる社)などは、20冊くらい買い集め、すべて人にあげてしまいました。


この本に反応してくれたのは一人だけです。

それが向禅師でした。


あとの人はこの本をどうしたでしょうか。

もしかしたら、内容を一瞥することもなく、捨ててしまったかもしれません。


ちなみにネットで調べてみたら、数年前に1万円くらいで古本が出ていましたが、いまはそれさえもありません。


懐かしいな。

あの時、買っておけばよかった(涙)

もし譲ってくれる人がいたら、お願いします。




関心のない人に、関心を持ってもらおうとすることは、多くの場合不毛です。

それに、そのような思いは、どこか暴力的です。

人の人生や人生観を変えようとすること自体、思い上がりかもしれません。



光の体験をすれば、それがあまりにも素晴らしいので、周囲の人を導きたくなる気持ちはわかります。

でも僕たちにできる事は、何かをすることではなく、心を開いてあるがままに、ここにいる事だけです。

時が来れば、その人のタイミングで、ことは起きていきます。

春になれば自然に芽が出てきます。

土の中に手を入れて、無理やり引き出す事はできません。



そして誰もの人生は完璧なシナリオで動いています。

はたからどのように見えようが、誰一人道を外れていませんし、そんなことはできません。

実際には、一瞬たりとも真理から離れて存在する事はできないからです。


目覚めはすべての人に与えられた可能性です。

そして目覚めてみれば、そこに早いも遅いもないことがわかります。


なぜなら、目覚めの本質は「いまここ」に帰ってくることだからです。

いつも「いま」なので、早いも遅いもないのです。


言葉にするとナンセンスですが、これが真相です。


だから、少し早く気がついたあなたは、まだ気がついていない人に対してお節介になるのではなく、その人の内側に隠されている完全性を見てあげる事です。



こうして分かち合える仲間がいることを幸せに思います。

まさか、こんな時代が来るとは夢にも思いませんでした・・・と言いたいところですが、本当はこうなることを知っていました。


そしていままさに、大きな変化の波が訪れている事を実感しています。

あなたも、そうじゃないですか?

その力にお任せしましょう。





この情報を必要としている人に届きますよう、ワンクリック運動にご協力ください。

   




・・・・・・・




明日の沖縄いまここ塾は、那覇市てぃるるで、19:30からです。

来週からしばらくお休みになります。

どうぞ明日をお楽しみに。



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昨日は面白かった。 智子さんの同級生で、品物の鑑定をする有名人がいるのね。 彼女の話では、その人、なんでも鑑定団というTV番組が、裏でこっそり意見を聞きにくる優れ者らしい。 番組の鑑定士がその場で品物を鑑定しているんじゃなくて、本番前にいろんな専門 ... 続きを読む
昨日は面白かった。


智子さんの同級生で、品物の鑑定をする有名人がいるのね。

彼女の話では、その人、なんでも鑑定団というTV番組が、裏でこっそり意見を聞きにくる優れ者らしい。

番組の鑑定士がその場で品物を鑑定しているんじゃなくて、本番前にいろんな専門家たちに見せて、その結果を出演者がその場で鑑定したみたいにしているわけ。



そういえば昔、あるクイズ番組に出たとき、台本に質問が書いてあって、もう一冊の台本には答が書いてあった。

しかも、出演者の誰がどの順で答えるのかが書いてあって、出演者の能力は答えの内容ではなく、その表現力だと初めて知った。



ほかの話だけど、ある番組の司会をやっていたとき、月曜日に相談コーナーってのがあって、その日は彼氏と別れた若い女性が相談者で、妊娠や、中絶や、暴力や、あれやこれや、泣きながら本当に可哀想な身の上話をするわけ。

もちろん相談者は、透けて見えないガラスの衝立の向こうでしゃべって、声もお茶の間には加工したものが届くようになっていた。

一緒に出ていた小堺クンなんか、もらい泣きしちゃって、僕もすっかり同情しちゃったんだけど、番組が終わったらその子、「お疲れ様でした~」って笑顔で帰っていった。

後で聞いたら劇団の研修生だって(笑)

これなんかは、番組をリアルにするために、出演者にまで内緒で行う「やらせ」

(そういえば小堺一機クン、先日丁寧なメールをくれて、「随(かんながら)神」の中に自分の名前が出てきて驚いたって。読むのが楽しみと言っていたけど、彼は見たとおりで本当に優しい人です)

多くのTV番組は、真実を伝える道具というよりは、視聴者を満足させる事が目的なわけで、そこには演出と工夫があるわけです。



で、昨夜の帰り道、ちょうど四谷三丁目あたりで、昔あった屋台のラーメン屋を思い出したら、いまはビルの中で営業していると聞いて、さっそく行ってみました。

最近は際立ったラーメン店が多いけど、昔はほんのわずかで、有名だったのは、恵比寿の香月、そして四谷三丁目の一心くらいじゃなかったかな。


その一心に入ると、おお、変わらぬ店主の姿。

そして、懐かしい猫たちの写真。

それはコダックの猫のポスター。





ね、懐かしいでしょ。

この一枚撮るのに、どれくらいの時間を要したんだろうね。

猫を飼っている人はわかるけど、カメラマンの要求なんかどこ吹く風だからね。




で、また昔のことを思い出した。

なめ猫って知ってる?






暴走族姿や、晴れ着姿や、けっこう流行ったよね。

あれをプロデュースしたTさんとはとても仲良しだったんだけど、一時に巨万の富が手に入ってしまって、後になって人間関係など諸々大変だったみたい。

で、当時はバッシングの嵐もあった。

これは猫の虐待だって。

子猫に麻酔打って、それで撮影したんだろうとか言われていた。

そしていろんな噂話が、まことしやかに流れていた。


ある日Tさんが、「悔しいな、みんな猫のこと知らないんだよ。猫は生まれたときからたくさんの愛情をかけて、やっと人間を信頼してくれる。信頼がなければあんな写真撮れないよ」って、ポソって言っていた。

でも一度大衆が信じてしまうと、もう取り返しはつかなくて、なめ猫ブームはあっという間に終焉しました。



僕らが信じている現実は、実際には当事者にしかわからないことが多い。

当事者だってわからないかもしれない。

だからあんまり決め付けて裁かないほうがいいよね。



あれ、今日は全然スピ系じゃない。

これといってメッセージもない。

ま、たまにはいいね。




長いつぶやきを聞いてくれてありがとう(^o^)




これ、もう少しお願いします。

この期間に新しく出会う人もいるだろうし、それも含めて縁ですね。

   
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人は時折、自分ではどうしようもない衝動に突き動かされるときがあります。 たとえば僕だったら、急に沖縄に移住したくなって、家族や仕事のことを考えれば到底不可能なことを、思いだけで実行してしまいました。 結果は大正解でしたが、そのときは何かの計算があった ... 続きを読む
人は時折、自分ではどうしようもない衝動に突き動かされるときがあります。

たとえば僕だったら、急に沖縄に移住したくなって、家族や仕事のことを考えれば到底不可能なことを、思いだけで実行してしまいました。

結果は大正解でしたが、そのときは何かの計算があったわけではありません。

第三者から見たら、極めて無謀な行動でしたが、本人はそれほど危機意識を感じていませんでした。

とにかく、「そうしたいからやる」、それだけです。

あなたの人生にも、似たようなことはありませんでしたか。


そのような衝動はどこから来るのでしょうか。

もしかして、その内容も、タイミングも、全部決まっているのではないでしょうか。


この世に何一つ偶然がないというのは、思いの世界まで含まれると思います。

その思いがどこから飛んでくるのか、興味深いところです。

この現象界の脚本自体が、各自の思考内容にまで浸透しているのかもしれません。



さて、根元昌明さんという方を知っていますか。

アマチュア音楽家なのですが、プロには見られない独自のセンスと情熱を持っていて、一部専門家からも絶大の評価を得ている人です。

この人、還暦を迎えて持った夢が、一流オーケストラを従えて、ベートーベンの第九を指揮するということ。

で、清掃員のバイトをしながら資金を貯めたとか。


この方の第九コンサートが、2010年7月25日 (日) 17:30から、 東京オペラシティコンサートホールで行われます。

チケットが全部売れても、まだ赤字という企画だそうです。

まさに、何かに動かされているとしか考えられない行動です。

クラッシックコンサートなので料金はやや高めですが、これは凄いライブになる予感がします。


ベートーベンの第九ですよ。

壮大なる神への賛歌と、我々が不可分であることへの、高らかな宣言です。

この曲に秘められた見えないパワーが純粋に発揮されるという点において、その場限りの奇跡を、聴衆全体が目の当たりにするような気がします。


もしかしたら、この演奏が始まる前と終わった後では、すでに時代が変わっているのかもしれません。

こういうロマンは、応援したくなりますね。



コンサートの詳細はコチラです。





来月からタイに長期滞在し、ブログの更新頻度が変わるので、ランキングはお休みします。

残り数日間、よろしくお願いします。


   



追伸

阿雲の呼吸」も更新しました。
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