かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2011年04月

それは突然来るんだよ。 何の前触れもなくね。 それを一瞬でも垣間見ると、二度と同じ生き方をしようとは思わなくなる。 もし自分が、生まれたときから泥水を飲んでいて、それだけが水だと思っていたのに、ある日、山から湧き出る清水を発見して飲んだとしたら、 ... 続きを読む
それは突然来るんだよ。

何の前触れもなくね。

それを一瞬でも垣間見ると、二度と同じ生き方をしようとは思わなくなる。


もし自分が、生まれたときから泥水を飲んでいて、それだけが水だと思っていたのに、ある日、山から湧き出る清水を発見して飲んだとしたら、再び元の泥水を飲もうとは思わないだろ?


それと同じことが起きる。

あまりの素晴らしさに、しばし感動に浸っているんだけど、それが落ち着いてくると思うんだ。

みんなに教えてあげたいって。



このような情報に興味を持った人は、自分にもその日が近づいている証拠だよ。

もちろん聞く耳を持たない人もいるし、いかに僕が間違っているかを証明しようとする人もいる。

でもね、たとえ世界中が僕に反対しても、真実が変わることはない。


と同時に、世界中の人が何万年も幻想を信じつづけていたとしても、幻想が真実になることもない。


それに幻想の中には、生きている意味がない。

一見意味に見えるんだけどね。


もっと頑張れば、いつか幸せになれる。

もっと獲得すれば、いつか幸せになれる。

もっと成長すれば、いつか幸せになれる。


頑張ること、獲得すること、成長すること、それが人生の意味だ。




でも、違うんだな。

人生に意味があるとしたら、それはいま幸せであること。

そして幸せであれば、意味は必要ない。

幸せそのものが、すでに意味だから。


人は幸せでないから意味を求めるんだ。

意味がなければ、苦しみに耐えるのは、あんまりだからね。



哲学や宗教はそのようにして生まれた。


でもその役目は終わろうとしている。

あなたが真実を知る日が近づいたからだ。

真実を知れば、一話目は完結になる。



そして二話目が始まる。

まったく違う価値観を持った、新しい旅が始まる。


その旅は、圧倒的に楽チンで、必要なものはすぐに引き寄せることが出来て、やりたいことをやりだして、何をやっても簡単に成功するし、我慢もいらない。


自分が何かをやるんじゃない。

天がやってくれるんだ。



すると偶然の一致が増えていく。

天の完璧なシナリオが、現象界に表れてくる。


それは誰かにできて、誰かにできないことじゃない。


興味が持てるかどうかが分かれ目だ。



僕を信じる必要はない。

僕が苦手なら、同じことを伝えている他のキャラを見つければいい。



ボブ・フィックスさんは、そのことを科学的に、そして真逆のサイキックな直観から伝えてくれる稀有な人だ。


何より、愛にあふれていて優しい。

みんなを同じように愛してくれる。

それは、知るに至った人の香りかもしれない。



ボブさんも、向禅師も、雲 黒斎クンも、みんな同じことを知った人で、それぞれの伝え方で話している。


今日はその3人が集結するよ。




どうなるのか楽しみだね(^o^)






   

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昨日ボブ・フィックスさんが来日しました。 彼と会うと、安らぎに包まれます。 それは彼があまり思考を使うことなく、無垢な状態にあるからだと思います。 「自我」と「思考」は同じものにつけられた違う名前です。 頑なな思考は、自我の強さを表していま ... 続きを読む
昨日ボブ・フィックスさんが来日しました。


彼と会うと、安らぎに包まれます。

それは彼があまり思考を使うことなく、無垢な状態にあるからだと思います。



「自我」と「思考」は同じものにつけられた違う名前です。

頑なな思考は、自我の強さを表しています。


自我の強さが、その人の苦しみの強さになります。

したがって人の苦しみとは、思考の頑なさに比例します。

もっと平たい言い方をすれば、心の苦しみの大きさは、その人の思い込みの強さです。



心が苦しければ、周囲を批判し続けます。

いつも心の中で、あれは間違っている、これは間違っていると判断し続けます。

正しいのは自分だけ。

それが自我と呼ばれる作用です。



思考を使わずとも、心の根底にある普遍的な知性が、いま何をしたらいいのかを教えてくれます。


もちろん思考が必要な場面もあります。

しかし、無意識に思考の世界に入ったまま出られなくなっているケースの、なんと多い事か。


その先に安らぎも解決もありません。



だからリラックスを奨励しているのです。

リラックスは思考を緩め、自我を薄めてくれます。

その分、苦しみが減っていきます。



問題を解決するには、問題を作り出している思考そのものから離れることです。


心の底に、あらゆる問題が消滅した境地があります。

それが涅槃と呼ばれるものです。

しかもそれは、まさにいま、あなたと共に存在しているのです。



このような文章も思考によって処理されてしまえば、ただのナンセンスです。

いまかかえているこの問題を、誰が解決してくれるのかと言うわけです。



真理は言葉で伝わることはなく、その人の内なる気づきと洞察によるものです。

そんな無力さを知りながら、今日もつらつらと書いてみました。



このブログに記してきた言葉たちが、あなたの洞察に少しでも役立ちますように。






   

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今朝、ふと目が覚めて、一瞬垣間見た世界があった。 うまく表現できないかもしれないけれど、書くことをトライしてみよう。 結論を言えば、人間の心がリセットされて、真っ新になれたらいいと思う。 僕らは心の底に、多くの観念を刷り込まれている。 たと ... 続きを読む
今朝、ふと目が覚めて、一瞬垣間見た世界があった。

うまく表現できないかもしれないけれど、書くことをトライしてみよう。



結論を言えば、人間の心がリセットされて、真っ新になれたらいいと思う。


僕らは心の底に、多くの観念を刷り込まれている。

たとえば幸せの形にしても、家族みんながそろって一家だんらんが最も素晴らしいとか、妻は良妻賢母が理想で、夫は勤労勤勉であるべきとか。

もちろんそれがいいという人もいるだろうが、そうでなければいけないわけじゃない。


幸せの形、人間のあるべき姿、正しい生き方や考え方など、理想とされる姿がすでにあって、人は無意識にそれを信じこみ、できるだけ自分を近づけようとしたり、お互いにチェックしあったりする。

そんなまことしやかな価値観が、たくさん刷り込まれているように思う。



本当はなんだっていいんだ。



確かに人間は社会的生き物なので、秩序を保つために最低限守らねばならないルールは存在するだろう。

しかしそれは単にルールであって、人間の価値に影響を与えるものではない。

しかもそれは、最低限のルールであるべきだ。

お互いの生存権を脅かしたり、害を与えたりしないという程度のものだろう。


人間界にこんなにも多くのスローガンが存在するのは、権力が民を支配するのに必要だったとか、人間の意識レベルが低いから道徳観念によって秩序を守ろうとか、いろいろ理由はあったと思う。



でも、もし僕らが己の本質に目覚め、開眼したとしたら最低限のルールさえ必要なくなるだろう。


そのレベルに達すれば、暴力性も破壊性もあり得ない。

そんな発想は不可能になる。

愛と調和、真の自由と尊厳が浸透した社会が出現する。

そこでは人は、どんな形にはまることもなく、それぞれの個性に合った人生を謳歌するようになるだろう。




今朝目が覚めたとき、自分はそんな世界からこの星にやってきたような気がした。


感じたことの1割程度しか表現できなかったが、またいつか話してみたい。






   



・・・・・・



【お願いとお知らせ】


コメントを書くときは、長くても800字以内にしてください。

長文の場合は、いくつかに分けて掲載するか、自分のブログに書いて飛ばすようにしてください。

ローカルのブログサーバーなので、いったん不備が生じると、みんながアクセスしずらくなってしまいます。

よろしくお願いします。



ボブさんとの東京コラボ講演会の追加募集は終了しました。

ありがとうございました。
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彼方なる次元は、言葉で表すことが出来ません。 言葉は真実を指し示す道具ですが、真実そのものにはなり得ません。 文章の中から、何を言おうとしているかの真意を汲み取ったら、それで言葉の役目は終わりです。 それ以上、言葉を持ち運んではいけません。 ... 続きを読む
彼方なる次元は、言葉で表すことが出来ません。

言葉は真実を指し示す道具ですが、真実そのものにはなり得ません。


文章の中から、何を言おうとしているかの真意を汲み取ったら、それで言葉の役目は終わりです。

それ以上、言葉を持ち運んではいけません。


すべての言葉は方便です。

方便とは、彼岸に渡るための船のようなものです。

陸上で船を持ち運ぶのは愚かな行為です。



この2日間、希望を捨てることの大切さを書いてきました。

それは、いまここに戻ってくるために必要な態度だからです。


しかし、希望を捨てることと現状に甘んじることは違います。


たとえば、長年夫のDVに苦しむ人がいたとして、

「いまを受け入れるべきだ」

「本当の幸せを得るには希望を捨てることだ」

と考えたとしたら、まったくの方向違いです。


それはいまを生きていません。

言葉という過去に縛られています。

しかも、その言葉が指し示している意味を勘違いしています。



もし僕のメッセージを信頼してくれるなら、その文章が何を言おうとしているのか、心で理解できたとき、メッセージを忘れてください。

理解はあなたのものですが、メッセージは僕のものだからです。


もし心からの理解が出来なければ、いまの自分にはタイミングが合っていないということなので、いったん保留にしてください。

またいつか、腑に落ちる時が来るかもしれません。


いまを生きるというのは、どんな言葉にも縛られることなく、自分の感性を生きるということです。

こう言うと、また新しい危険が生じてしまいます。

本物の感性は、もともと備わっている根源的知性からのものですが、多くの「べきだ」「ねばならない」に制限された感性は、条件付けからくる自動反応の様なものです。

実際にはそれは感性ではなく観念です。


人間の心は個々それぞれに複雑化しているので、全員に向けた共通のメッセージなどありえません。

それを知ったうえでこのような役をやらせてもらっているので、時たま立ち止まって、警鐘を鳴らすようにしています。


絶対に希望を持つなとも言っていません。

真意はそこにありません。

また違う日には、そして違う人たちには、希望の大切さを説くかもしれません。



あなたの純粋な感性を取り戻して、その声に従って生きてください。

その声は彼方なる次元からのものです。

いつもあなたを見守り、あなたを幸せに導きたいという存在からのものです。


DVに苦しんでいるというあなたに伝えます。

自分を大切にしてください。


及ばずながら僕も、あなたを応援しています。






   


・・・・・・・・・・・・


明日、ボブ・フィックスさんが来日します。

彼とのコラボ講演会には、フランスやカナダや上海からも申し込みがありました。

大変ありがたいことです。


4月30日の東京会場は、もう少しお入りいただけるようになりました。

参加ご希望の方は、コチラからお入りください。
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昨日の記事のような内容を理解してくれる人たちが増えてきました。 これも時代の変化なのでしょう。 もしこれが20年前の日本なら、大多数の人から反感を買うか、相手にもされなかったことでしょう。 実は、そうでした(笑) それにしても急速に変わってい ... 続きを読む
昨日の記事のような内容を理解してくれる人たちが増えてきました。

これも時代の変化なのでしょう。

もしこれが20年前の日本なら、大多数の人から反感を買うか、相手にもされなかったことでしょう。

実は、そうでした(笑)



それにしても急速に変わっていますね。

僕はそれを身に染みて感じています。


人は自分の夢を強化してくれる情報を好みます。

いまは不幸でもいつか幸せになれるという類の話が大好きです。

将来への希望が、いまの苦悩を緩和してくれるからです。


たいていの講演会は、講師の話をこれからの人生に活かし、より大きな幸せを実現しようという目的で開かれます。



ところが不良オヤジのアベッチはこう言います。

「あなたの人生は、いま以上にはよくならない。それを認めるのが自分への最高の贈り物だ」



どんびき~ ( ̄Д ̄;)




このような話を理解しがたいのは、この一言が人生観の根っこに訴えているからです。

その根っこを握りしめたままこのような情報に触れても、反感を持つか、ナンセンスにしか聞こえないはずです。

これまでの生き方の枝葉を修正するのではなく、根を断ち切ろうというのが不良オヤジの目的です。



明日を夢見て数十年間生きてきて、あいかわらず明日を夢見ている自分に気づくことです。

その延長線上には何もありません。



明日を落として徹底的に「いま」に帰ってきたとき、時間という幻想から、永遠の次元に入り込みます。

その時、人生と呼んできた悪夢が消滅します。

時間という幻想と共に、死という幻想も消滅します。



キリストが天の王国と表現した次元、仏陀が涅槃と表した世界に、自分が最初からいたことを思い出します。



アダムはエデンの園を追放されてはいなかったし、無明など存在していなかったのです。



無無明


般若心経はこの次元を端的に表していますが、人生観の大前提を握りしめたままの意識には、やはりナンセンスな経文にしか見えません。




ああ、言葉とはなんとモドカシイものでしょう。


まさにいま、すでにそうだというのに。






今日もしなやかに、流れのままに。







   


・・・・・・・・・



【お知らせ】


西洋の精神の友、ボブ・フィックスさんとの沖縄講演会は、5月10日(火)いまここ塾の会場、中城村吉の浦会館ホールで行います。
予約は要りません。
また詳しく紹介しますね。

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実は一時間ほど前にこの記事を書き終えたのですが、なんとなく気が乗らなくて、そのままにしていました。 でもやっぱり載せることにします(笑) ・・・・・・・・・・ 僕たちは様々なことを学びながら、今日まで生きてきました。 人生は喜びも与えてくれま ... 続きを読む
実は一時間ほど前にこの記事を書き終えたのですが、なんとなく気が乗らなくて、そのままにしていました。

でもやっぱり載せることにします(笑)


・・・・・・・・・・


僕たちは様々なことを学びながら、今日まで生きてきました。

人生は喜びも与えてくれましたが、その一方で、苦しみや悲しみや多くの試練とも出会ってきました。

初めのうち人生のテーマは、どのようにしてその試練と立ち向かうか、どのようにして苦しみや悲しみを乗り越えるか、あるいは喜びや幸せをつかむにはどうしたらいいかということに限定されていました。


恋人や、いい仕事や、お金や、物や、自分を満たしてくれそうなものを引き寄せることによって、幸せを手に入れようとします。

しかしそれは、結局は自分を満たしてはくれません。


人は時間の問題で人生に打ちのめされます。

それでも人は、果敢に前を向いて暮らしています。


何故そのような力を持てるのでしょう。


それを可能にしているのが希望です。



希望はこう言います。


「いま不幸なのはお金が足りないからだ。お金さえあれば幸せになれる」


「この寂しさは一人ぼっちだからだ。いつか素敵な人と結婚すれば、寂しさから逃れられる」


「こんなに惨めなのは結婚相手を間違えたからだ。もっと自分を幸せにしてくれる人がどこかにいるはずだ」


「毎日が味気ないのは仕事がつまらないからだ。いつかもっといい仕事にありつければ生き生きと暮らせるだろう」



そうやって「いつか」という日を待ち望むけれど、その「いつか」は決して訪れません。

たとえそれらを首尾よく手に入れたとしても、期待していたものとは違います。

一緒に届くはずだった、自分を満たしてくれる贈り物が内包されていないんです。



するとまた、人は言います。


「いつか」


「いつか」


このような繰り返しが人生です。

そしていつの日か死んでいきます。



この堂々巡りの旅路を終わらせるには、どうしたらいいんでしょう。


今日のアドバイスは受け入れ難いかと思いますが、それでも書いておきます。


僕たちがこの不毛な人生からジャンプするには、あらゆる希望を落とすこと。

この旅がどこにも行き着かないことを見抜き、絶望の中に入っていくことです。

実際には希望を100%落とせば、絶望も消えてなくなります。

それは表裏一体の同じものだからです。

希望も絶望も消えたところに、安らぎがあります。

それは最初から与えられていた、僕たちの本質、至福です。

それを「いまここ」という言葉で表してきました。



希望を拠り所にしていた人生に終止符を打つ勇気はありますか。

人生がどこにも辿りつかないことを見抜けますか。


もう十分に試したのではないですか。

それでもまだ「いつか」を期待して生きていきますか。



招待状は、いつも「いま」あなたに届けられています。






   

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「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」 って、やってみてどうでしたか。 最初のうちはうまくいっていたのに、何かが原因で不機嫌になると、とたんに周りを非難しだすという傾向はありませんでしたか。 僕らは、合理的、論理的に行動しているつもりで ... 続きを読む
「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」

って、やってみてどうでしたか。


最初のうちはうまくいっていたのに、何かが原因で不機嫌になると、とたんに周りを非難しだすという傾向はありませんでしたか。

僕らは、合理的、論理的に行動しているつもりでいますが、ところがどっこい、気分しだいでどうにでもなってしまいます。


だから非難がましい人(態度に出さなくても、内側でそういう傾向がある人)は、間違いなく不幸な気持ちで生きています。

不幸な気持ちの人に、受け入れろなんて言っても無理な話です。



不幸な気持ちの人の多くは、何かの被害者になっています。

こうこうこうだから自分は不幸なんだという理由をしっかり持っているのです。


被害者の心理はこうです。

私は正しい。間違っているのは周りだ。


あるいは、

この不幸な現実を作り出したのは自分ではなく、周りだ。


あるいは、

自分にはどうすることもできなかった。全部周りの責任だ。


というわけです。



被害者の立場をとっていると、自分は正しいという気分になれて居心地はいいのですが、その代わり不幸な気分になってしまいます。

代償は大きいんです。



それでは、被害者の立場の反対は何でしょう。


あえて言えば、責任の立場です。

どんな出来事に対しても、それを作り出したのは自分だというところから現実を見ています。


自分にはああすることも、こうすることもできたし、ああしないことも、こうしないこともできた。

自分には被害を最小限に抑える、他の選択をする可能性があったという立場です。

だから人のせいにしません。



いつもこの立場からものを見ることが出来れば、うまくいかなかったことからも学ぶことが出来ます。

「次からはこうしていこう」となるのです。


7年前に始めた沖縄でのいまここ塾で、当初言い続けていたのはこの一点でした。


「自分の不幸を人のせいにしない」



人のせいにしていると学びません。

学ばないから繰り返します。

○○運が悪いなんてボヤいている人は、たいていはこのタイプです。




「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」


この姿勢を保つことができれば、いろんな気づきが訪れます。

人間というものが、どれだけ他者や自分を非難しながら生きているかも気づけます。



気づいたらチャンスです。

違う選択をすればいいのですから。


たいていの場合は、自分が何をやっているのか気づくこともなく、同じパターンを繰り返しがちです。


だからたった一日でも、

「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」

という自覚を持って生きるのは、大いに意義あることです。




さて、あなたはこのレッスンを実践してみて、どんなことを感じましたか。

よかったら気づきを教えてください。




また今日もやってみましょう。


「今日一日は、自分のことも人のことも非難しない」




ねっ(^o^)





   

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