かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2012年03月

文字情報では、読み手の解釈以上のことは伝わりません。 講演会であれば、場を共有することで、言葉を超えた何かが伝わる可能性があります。 1対1のダルシャン(出会い)においては、もっと速やかな伝達が可能になります。 講演会で質問をしてくれた人の中には、 ... 続きを読む
文字情報では、読み手の解釈以上のことは伝わりません。

講演会であれば、場を共有することで、言葉を超えた何かが伝わる可能性があります。

1対1のダルシャン(出会い)においては、もっと速やかな伝達が可能になります。

講演会で質問をしてくれた人の中には、なぜ自分の内側が僕に読み取られてしまったのか不思議に思った人もいたでしょう。

あれは心を読み取ったのではなく、つながったのです。

その瞬間に2人だけの空間が生まれ、意識のチューニングが行われます。

するとこちらから出てくる言葉は、当人にとって最適なものになります。


このような状態においては、高次の意識伝達さえも可能になります。

数週間前にタイに行った時、ボブさんが仏教の三宝、仏・法・僧を解説していましたが、三宝とは、まさにダルシャンのことを言っていたのだと理解できました。

ボブさんは西洋人なのに、東洋思想の真髄を体現している不思議な人です。



さて話を昨日に戻しますが、性を扱った理由は、目覚め後の人間に対して誤った考えを持っている人が多いからです。

問題は、そのような誤解に基づいて自分を完全な人格に近づけようと試みることです。

その挑戦に勝ち目はありません。


そもそも克服すべき罪などありませんし、自らを空(くう)の静寂に固定すれば、もはや生きているとは言えません。

命とは動きです。

宇宙(神)は、一瞬も止まることなく動き続けています。

成長し、拡大し、自己知を深めようとしています。

その試みを、あなたという身体をとおして実践しているのが、存在の本当の意味です。


宇宙(神)は、想像を超えたとてつもない知性を持っています。

だからお任せして、彼(?)がやりたいようにさせてあげましょう。

それは自分自身を生きることで実現します。

泣いて、笑って、時には不安におののき、時には傷つき、そしてまたイキイキと生き出すのです。

それが人間です。



キリストは一度も悩まなかったのでしょうか。

釈迦は一度も傷つかなかったのでしょうか。

大地の夕焼けや、女性の裸身や、美しいものを見ても、なんの魅力も感じなかったでしょうか。


目覚めたからといって、人間らしさが消えてなくなるわけではありません。

それどころか、もっと人間らしくなります。

彼らは、自分の中のあらゆる面を受け入れることによって、自分と一つになった存在です。

自分と一つになることが、神と一つになることなのです。


宇宙(神)があなたに望んでいることは、完璧なあなたになることではなく、あなた自身を受け入れて、自分らしさをイキイキと生きることです。

それをしたくて、あなたを選んだのですから。








   

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ここに書く記事は、不特定多数の人に向けたものではなく、その記事を必要としている人のためのものだというのは、くり返し伝えている通りです。 コメント欄で雪光(ゆきひかり)さんが指摘してくれたとおり、昨日の記事は性欲を否定的に捉え、それが自己承認や真理探求の ... 続きを読む
ここに書く記事は、不特定多数の人に向けたものではなく、その記事を必要としている人のためのものだというのは、くり返し伝えている通りです。

コメント欄で雪光(ゆきひかり)さんが指摘してくれたとおり、昨日の記事は性欲を否定的に捉え、それが自己承認や真理探求の妨げになっている人に向けています。

それにしても一昨日も雪光さんは、僕の意図を的確に捉えて補足してくれて、感謝しています。

それ以外にも、多くの理解者たちに支えられて、このブログが成り立っていることに、あらためてお礼を言わせてもらいます。


さて今日は、もう少し中立的なところから覚醒後の性欲について書いてみます。

覚醒すると性欲がなくなるという考えを持つ人は、おそらくはチャクラの発想がその背景にあるのではないでしょうか。

チャクラとは古代ヒンズー教のヨガから始まる(もっと古いという説もある)伝統的な考え方です。
(ちなみにボブ・フィックスさんはこの分野のオーソリティーであり、すべてを理解している一人です)


最下部のセックスセンターから最上部のサハスラーラと呼ばれる頭頂のチャクラにクンダリーニが昇りつめて、覚醒体験が起こると一般的には信じられています。

しかし実際に体験してみれば、確かに頭頂まで昇るのですが、その後また下がり始め、何度か昇り降りを繰り返した後、アナーハタチャクラ(ハートチャクラ)で完結します。

アナーハタチャクラ(ハートチャクラ)は7つのチャクラの中心に位置し、下部3つの肉体的なチャクラと、上部3つの精神的チャクラをつなぐ要となっています。

チャクラの数については、伝統によって違うのですが、ハートチャクラが全体の中心であることは共通しています。


さて、僕たちを生かしている生命エネルギーは一つしかありません。

最下部の原初的なセックスエネルギーも、最上部の神聖な覚醒エネルギーも、同じエネルギーです。

ちょうど氷が温められて水に変わり、水が沸騰して水蒸気になり、その形態は変わっても、成分はH2Oのままであるのと同じです。

したがってセックスエネルギーを使って、それを昇華させ覚醒に至るという伝統もあります。

このようなことから、覚醒すればセックスエネルギーは変容されて消え去ると考える人が多いのだと思います。


確かに覚醒後は、それまでのようにセックスエネルギーに振り回されることはなくなります。

それは日常のチャクラの位置が変わるからです。

ちなみに僕自身は、ハートチャクラで生きている時間が長いと感じています。

しかし、最下部のチャクラも最上部のチャクラも同時に存在し機能しています。

もし最下部のチャクラとそのエネルギー(セックスエネルギー)がなくなってしまったら、それは土台を無くした家のようなもので、まことに不安定な状態です。

そして、そのようなことは決して起こりません。


どの位置のチャクラに住む人でも、その気になれば性欲を喚起し、セックスをすることは可能です。

セックスにおいて大切なことは、単に肉体的満足のためではなく、愛の交感として行うことです。


このあたりについては、拙書「随(かんながら)神」に詳しく書いているので、興味がある人は読んでみてください。

しかしその場合でも、特に男性の場合は性欲を喚起しなければなりません。

でも彼は同時に、全身全霊のエネルギーを投入します。


実はポイントは性行為にあるのではなく、存在を総合的に使って、愛を持って行為に及ぶか否かです。

自分が全体とイコールであるという感覚を、行為の中に持ち込めるかどうかです。

このことも「随(かんながら)神」の7つの鍵の件(くだり)で説明している通りです。

人間にとってのセックスは、単に子孫を残すだけではなく、愛の表現であり、さらには神の一瞥につながる神聖な儀式でもあります。

それは天からの贈り物です。


さて、このようなセックスを実践するには、少なくとも性欲やセックスそのものを、中立的に見る感性が必要です。

現在僕たちが置かれている状況は、非常に偏った性観念の下にあるので、昨日のような記事が必要になります。

偏っていれば性エネルギーは歪んでしまい、その歪みが自己不信や過度な性欲に結びついてしまいます。


まずは理解してください。

性欲そのものには、何も悪いことはありません。

性欲は人間の敵ではありません。

性欲は聖なる道具です。








   

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性欲ファンのみなさん、こんにちは。 性欲研究家の玉袋静観です このテーマは、真理探求者が陥りやすい誤解のひとつなので、腰を据えて書いてみます。 真理を体現すれば、性欲を克服できる。 そう思っている人のなんと多いことか。 克服すべきものなど ... 続きを読む
性欲ファンのみなさん、こんにちは。

性欲研究家の玉袋静観です

このテーマは、真理探求者が陥りやすい誤解のひとつなので、腰を据えて書いてみます。



真理を体現すれば、性欲を克服できる。

そう思っている人のなんと多いことか。


克服すべきものなどありません。

目指すは、あるがままの自分です。


そもそもなぜ性欲を克服しなければならないのでしょう。

おそらくそこには、なんらかの罪悪感が存在しているのでしょう。


まず最初に理解すべきは、性欲は克服することができないし、その必要もないということです。

なぜならば、我々の存在が性そのものだからです。

人間だけでなく、あらゆる生物は性が基本になっています。

美しい花も性の表現であり、鳥のさえずりや、秋の虫の声も、性の呼びかけです。


意外かもしれませんが、食欲も物欲も衰退した老人が、死の最後まで持ち運ぶのが性欲です。

男も女も同様です。

しかし社会はそれを許しません。

「いい歳をして」などと揶揄するのが落ちです。


そのために誰もが内側に封印し出します。

封印された性欲は消えてなくなるわけではなく、死の間際、最後に見るビジョンが性に関するものだというのは、よくあることです。


それほどに強い力ですから、もし全員が性欲を自制することなく発揮してしまったとしたら、社会は大混乱することでしょう。

人間は社会的な生き物なので、そのような事態は避けなければなりません。


そのため、人々の自律を促すように、多くの文化は性に対して罪の意識を植え付けてきました。

その役目を宗教が担ってきたので、性欲は罪であり、精神霊的な成長をすれば性欲がなくなるという誤解が生じてきたのです。


最も基本的な衝動を、最も強く押さえ込んできたので、性に対する誤った観念は、それぞれの人生に大きな影響を与えています。

もし社会が性というものを中立的に扱い、性衝動が始まる思春期から、健全な形で解消させることができれば、世の中の犯罪は激減することでしょう。

これは性犯罪だけでなく、あらゆる犯罪について言えることです。

執拗なまでの権力欲や、支配欲なども、思春期に歪んでしまった性欲が原因の場合が多いのです。



さて、もしあなたが敬愛している覚者がいたとして、その人が食欲旺盛で、グルメで、世界中のご馳走を食べ歩くのが趣味だとしたらどう思いますか。

それほど否定的な気持ちにはならないでしょう。


それでは、その同じ覚者が性欲旺盛で、世界中の美女を食べ歩くのが趣味だとしたらどうでしょう。

え?羨ましい?

そうかもしれませんが、その前に、アイツは覚者などと言って世間を騙したと思いませんか。


我々は性に対して、はるかに厳しい態度で臨んでいます。

当然それは自分自身にも向けられていて、自分を認められない原因になったり、悟りに向かうことの妨げになったりしています。


確かにブラフマチャリア(禁欲)の修行のように、ある種の衝動や欲望を極限まで我慢することで、意識をジャンプさせる道はあります。

だからと言って、精神霊的レベルと性欲が直接関係しているわけではないので、混同しないことです。



聖人へのイメージは、自らをあるがままに認めることの妨げになりがちです。

聖人とか覚者とか崇められる人たちが、もっと正直に、当たり前の人間としての自分を暴露すれば、目覚めの連鎖をさらに加速させるように思います。

どこまでいっても当たり前の人間だというのは、特別な存在に憧れる自我にとっては失望する情報ですが、その失望は正しい道を歩む上で有効に機能することでしょう。




今日の沖縄は、初夏のようです(^o^)








   

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目覚めの後、どのようなタイプの人になるかは、人によって違います。 基本的に達する理解は同じですが、その発揮の仕方には個性があります。 にもかかわらず、「目覚めた後はこういう人になる」という固定化された覚者イメージが信じられていることは、目覚め前の人 ... 続きを読む
目覚めの後、どのようなタイプの人になるかは、人によって違います。

基本的に達する理解は同じですが、その発揮の仕方には個性があります。


にもかかわらず、「目覚めた後はこういう人になる」という固定化された覚者イメージが信じられていることは、目覚め前の人にも、目覚めたばかりの人にも、ある種の混乱をもたらします。


代表的な覚者イメージは、


物欲がなくなる。


性欲がなくなる。


高潔な人格になる。


人を助けるために働き出す。


奉仕の精神で自己犠牲を厭(いと)わない。


いつも穏やかで感情の起伏がない。


エネルギーが一定に保たれている。


嘘をついたり演じたりしない。


口元に静かな微笑みをたずさえている。


寛容で全てを受け入れている。



まだ他にもあるかもしれませんね。



これらのイメージの多くは、人が普通ではない存在に憧れる性質があることや、自分の中にあるマイナス面を、いつか解決したいという思いからきています。

そもそも、人間が持つ特定の側面を、マイナス面と決めてしまったこと自体が間違いなのですが、このことについては長くなるのでまたの機会にします。



それでは一つ一つ見ていきましょうか。


まずは物欲です。


目覚めた後に無くなるのは、物欲ではなく執着です。

もし綺麗なダイヤモンドを見て大好きになり、それを手に入れることが可能ならば、そうするでしょう。

フェラーリが好きなブッダや、ロールスロイスが好きなブッダがいてもおかしくありません。

そんなことと、その人が到達した意識レベルは何の関係もありません。


彼らは、欲しいものを得ればそれを楽しみ、なければないでその状況を楽しむことができます。

これが手に入らなければ自分は十分ではないとか、幸せではないとか、手に入れるまでは頑張るとかいった状態にはなりません。

所有物や達成した成果によって自分を証明しようとする必要性がなくなっているからです。


さらには、この世のものは何ひとつ誰のものでもないことを深いところで理解しています。

所有というのは、所有しているつもりになっているだけであり、実際には誰のものでもありません。

それを知ったうえで、共同幻想を持った社会の人との軋轢を避けるために、あえて自分もその幻想に参加しているだけです。



物欲はそれ自体には何の問題もありません。

質素な庵(いおり)に住んでいるから高徳で、豪華な邸宅に住んでいるから俗物だということではありません。

それは単に、好みの違いです。


ただしそれが過度な欲望、すなわち貪欲さを引き起こす場合や、失くしたくないと執着した場合に問題が生じます。

目覚めた後には、そのような傾向がなくなっています。

したがって問題が起きません。


単純に、欲しいものは欲しいし、なければないでいい。

これが目覚め後の物欲です。




次回は性欲について書いてみます。







   


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4月の東京講演会は定員のため申し込みを終了しました。

4月8日の博多講演会は残り席わずかとなっています。


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あなたが大いなる自己に目覚めれば、それは物語の第一巻の終りなのですが、すぐにまた第二巻目が始まっていきます。 それまではマインドとしての自分(自我)が、未来に向けて生きていましたが、目覚め後は大いなる自己が、ありのままの現実の中で生き始めます。 で ... 続きを読む
あなたが大いなる自己に目覚めれば、それは物語の第一巻の終りなのですが、すぐにまた第二巻目が始まっていきます。

それまではマインドとしての自分(自我)が、未来に向けて生きていましたが、目覚め後は大いなる自己が、ありのままの現実の中で生き始めます。


でもすぐには馴染みません。

たいていの場合、目覚めた直後は気分がハイになり、明日への心配が消え、問題がすべて解決したように思います。

苦しみの原因だった自我が消えるのは、まったくもって爽快です。

ところが、肉体を持っている以上、自我のすべてが消えたわけではなく、ある時、ふたたび自我の残骸に巻き込まれ、振り出しに戻ったような気分になります。


しかしそれもつかの間、また大いなる自己に意識の中心をシフトします。

それは簡単にできます。

そうやって、行ったり来たりが始まるのです。


ここからが悟後の修行の始まりで、大いなる自己を見失わないように、不断の気づきを持つようにレッスンします。

レッスンとか修行とか言うと、なにやら大変そうな感じですが、実際には気持ちのいい時間を増やすことなので、苦痛や忍耐とは違います。

僕自身は、あいかわらず行ったり来たりですが、「そのうちなんとかなるだろう」と思っています。


自我中心の人生の死は、同時に大いなる自己の誕生です。

そんな新しい自分が、ありのままの世界と、どのように関わっていくのかは、最初のうち難しく感じます。

人生に対する価値観が反転し、それまで興味を持っていたことが色あせ、独りが苦ではなく、友人を必要としなくなります。

世間体だとか、人の目だとかが気にならなくなり、オリジナルな生き方が始まります。

周囲からは、少し変わった人、独自の生き方をする人、思い切ったことをする勇気ある人と見られることが多いようです。

あるいは、自分勝手な人、気まぐれな人という見られ方もします。



そしてもうひとつの大きな特徴は、将来に対する期待や希望がなくなることです。

何かになりたいという思いがありません。

もうこれで十分だし、どうなっても同じだし、ただ起きることが起きていくので、その流れと共に生きていこうとします。


でもすべての欲求がなくなるわけではなく、好きな食べ物を食べようとするし、やりたい活動をするし、心地いい居住空間を好みます。

不思議なことに欲求はすぐに叶います。

どうすればいいか、すぐにわかってしまうからです。

大いなる意識は、必要なアイデアを絶え間なく提供してくれます。

したがって、その人の好みによりますが、たいていの場合、ある程度リッチで快適な生活になってきます。

これは多くの人が想像する、清貧の生き方とは違います。

有名な覚者たちが何も持たずに生きたことから、多くの人が悟後の在り方に、先入観を持っているのだと思います。




こんな話に興味を持ってもらえるなら、また書きます。








   


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4月22日の東京講演会は残り席が少なくなっています。

お申し込みはコチラから。


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この世は苦しみに満ちています。 人間は苦しむために生まれてきたとも言えます。 オギャアと生まれたその時から苦しみは始まっています。 幼い頃に思い通りにならない様々な苦しみから始まって、大人になればお金の苦しみ、人間関係の苦しみ、自己否定の苦しみ、 ... 続きを読む
この世は苦しみに満ちています。

人間は苦しむために生まれてきたとも言えます。


オギャアと生まれたその時から苦しみは始まっています。

幼い頃に思い通りにならない様々な苦しみから始まって、大人になればお金の苦しみ、人間関係の苦しみ、自己否定の苦しみ、病の苦しみ、欲しいモノが得られない苦しみ、そしてすべてに浸透する苦しみ。

人生とは苦しみそのものなのに、「いつか幸せになる」というありもしない期待を持つことで、いまの苦しみを麻痺させようとするのが人間です。

そしてなんとか軌道に乗ったとき、「あー幸せだ」と言います。。

それは単に、苦しみが一時停止しただけのことで、いつまでも上手くはいきません。

軌道に乗った仕事はいつか壁にぶつかるし、円満な家庭も長くは続かないし、愛している人ともいつかは別れることになります。

得たものは失う定めで、得られないものは欲求不満を引き起こします。


人生とは、笑いたくなるくらい苦しいものです。

でも人生を苦しみだと認めてしまえば、苦しみは普通の状態になります。

普通の状態になれば、もはや苦しみは苦しみではなくなります。

「幸せ」なんていう幻想を持ち出すから、苦しみが耐えられないのです。



さて、人生は苦しみそのものですが、人生を超えることは可能です。

仏教では「涅槃寂静」と言います。

人生は四苦八苦ですが、その人生を超える(解脱)ことも可能だと説きます。



そして実際に可能です。

でもそれは、いまの自分や人生の延長線上にはありません。

その自分がいなくなったとき、人生が消えて無くなった時、もっと正確に言えば、自分も人生も、最初から存在していなかった事に気づいた時、根底からの救いが起こります。


自分も人生も、時間の中でしか存在できません。

したがって、時間という幻想を見抜けば、それがゴールとなります。


「いま」がゴールなのです。



どこを目指しているのですか。

「いま」がゴールですよ。



こうして毎日のように書く記事は、不特定多数の人に発信しているのではありません。

その日の情報をタイムリーに必要としている人がいます。


そんなあなたに宛てた記事です。


たった一人の人でも、意識がジャンプするキッカケになりますように。







   


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3月27日は沖縄講演会があります。

今回から入場料が変わりますのでご注意ください。

詳しくはコチラから。

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宇宙はあなたを通して、あらゆる経験をし、やがては自分が宇宙自身であることを思い出そうとしています。 そのために仕組まれたゲームが人生です。 ゲームの名前は「かくれんぼ」 それにしても宇宙の奴は、うまくかくれたものです。 少しでも距離があれば時間 ... 続きを読む
宇宙はあなたを通して、あらゆる経験をし、やがては自分が宇宙自身であることを思い出そうとしています。

そのために仕組まれたゲームが人生です。

ゲームの名前は「かくれんぼ」


それにしても宇宙の奴は、うまくかくれたものです。

少しでも距離があれば時間の問題で見つけ出せるのに、まったく距離がないので時間の中では見つかりません。

無距離は無時間の中でしか発見できないのです。

それが「いまここ」の意味です。


距離と時間は同じものだと言ったアインシュタインは、科学というよりは真の宗教性に対する洞察を与えてくれました。


距離(空間)も時間も、実際には存在していないことを見抜くことが、目覚めと呼ばれる現象です。

すべては自分であったことの発見です。


この宇宙にはあなたしか存在していません。

あなたは宇宙そのものなので、この宇宙には宇宙しか存在していないことになります。


あたりまえと言えば、あたりまえですね。








   



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4月の東京講演会(いまここ塾)の参加申し込みを開始します。

詳細はコチラから。


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