かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2012年09月

今日は東京講演会でした。 来てくれた皆さん、ありがとうございました。 「人は死なない」・・・昨日の窪田老師の論文を、僕なりの表現で話させてもらいましたが、これは仮説ではなく、存在への理解が深まったとき、誰もが実感できる事実です。 親しい人を亡くし ... 続きを読む
今日は東京講演会でした。

来てくれた皆さん、ありがとうございました。


「人は死なない」・・・昨日の窪田老師の論文を、僕なりの表現で話させてもらいましたが、これは仮説ではなく、存在への理解が深まったとき、誰もが実感できる事実です。

親しい人を亡くした人や、最期を看取る人は、死と直面した時に自分には何もできない無力感を持つかと思いますが、そんな時は思い出してください。

現象としての肉体は機能を停止しますが、その人を生かしていた命は永遠です。

宇宙大の意識の懐に帰っていくだけです。

死は旅立ちであり、決して忌まわしいものではありません。


命とは現象界での活動ではなく、森羅万象すべての基盤にある無尽蔵のエネルギーです。

命はあなたの所有物ではなく、あなたが命そのものなのです。

命は現象界においては、姿を現したり消えたりして見えますが、実際には現象を超えて在り続ける存在そのものです。


死への誤った観念が変われば、生き方も変わっていきます。

恐れからではなく、人生が創造の喜びに変わっていくのです。







講演会の後は、瞑想伝授した方たちへのアフターケアを兼ねて瞑想会をやっています。

今日も嵐の中を来場いただきありがとうございました。


天候が悪化する前に終了したので、やや短い時間となりましたが、とても素晴らしい時間を共有させてもらいました。

みなさんが、会うたびに輝きを増しているのが分かります。

永遠の風の中で、出会えたことに感謝しています。



いまとても爽やかな気持ちなので、こうして記事に書かせてもらいました。



明日沖縄に帰ります。


ありがとうございました。









   


・・・・・・・


10月2日(火) 沖縄いまここ塾

今回は20:30開演になりますので、ご注意ください。

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今朝、堀澤大僧正からメールをいただきました。 その中に窪田慈雲老師の文章を添付して下さったので紹介します。 少し長いですが、お時間があるときに、ぜひお読みください。 「人間は死なない」―耕雲大老師の思い出ー   窪田慈雲老師 記 それ ... 続きを読む
今朝、堀澤大僧正からメールをいただきました。

その中に窪田慈雲老師の文章を添付して下さったので紹介します。

少し長いですが、お時間があるときに、ぜひお読みください。






「人間は死なない」―耕雲大老師の思い出ー   窪田慈雲老師 記


それは昭和三十三年(一九五八年)一月の第二か第四の日曜日のことであった。

鎌倉坐禅会の例会が、何時もの大塔宮からその日に限って北鎌倉の松ヶ岡文庫の茶室で行われた。

丁度昼食後の歓談の時間であった。


中央に安谷白雲老師が坐られ、その右隣に山田耕雲老師が坐り、私は安谷老師のやや左側の対面した位置に坐っていた。

その外何人かの道友も同席していたが、そのうちの一人が安谷老師に向かって、

「老師! 人間は死んだらどうなるのでしょうか。」と質問した。


すると山田耕雲老師が、まさに間髪を入れず、突然大きな声で

「人間は死なない! そうですよね老師! 」

と、安谷老師に向かって言われた。


安谷老師は、うなずきながら、

「うん、人間は死ぬときは只死ぬだけだよ。」と仰有った。

 暫時、静寂がその場を支配した。


すると耕雲老師は、今度は、静かな口調で、

「人間は絶対死ぬ事はないのです。だから恐れることはない。昔からよく言われますね。
  
世の中は今より外はなかりけり、

昨日は過ぎつ明日は来たらず。

世の中は此処より外はなかりけり、

脇に居られずよそに行かれず。」

と言われて、我々は即今只今の命しかない事実を示された。


このような断言は、まさに昭和二十八年十一月の耕雲老師の再見性(『禅の正門―付録二「再見性の大歓喜」』参照)の禅体験に裏付けられた自信によるものであって、それこそ他を寄せつけない絶対の権威があった。


私はその時、丁度二十六歳の正月で、前年の昭和三十二年八月埼玉県の真光寺接心で見性を許されて間もなくのことであったため、耕雲老師の「人間は死なない!」の一言に、まさに脳天を打ち砕かれる思いがし、それを今日でもありありと思い浮かべることができる。

それは何故かと言うと、私の参禅の契機が幼いとき二人の弟の死に遭遇した無常感と死ぬのが怖いという恐怖感が出発点であり、何とかして生死問題を解決したいという思いが基本であったことと、見性体験により、少しは解決できたかなどと思っていた矢先の自分が、耕雲老師のように「人間は絶対死なない!」とはとても断言できる自信が無いことを思い知らされたからである。


「人間は死ぬことは無い。」とは一体どういうことであろうか。

このようにはっきりと断言できる自信はどこから出てくるのであろうか。

それがはっきり言えない自分の見性体験など、まだまだ不徹底であり、不明瞭であるという反省心がむらむらと湧いてきて、一層の参禅弁道の意志を固めたのである。

まさに私は耕雲老師の一言に強く鞭打たれたと言って過言ではない。


それからは白雲室の室内での真剣な参禅に勤めたが、耕雲老大師の真意を理解するまでに更に十七年の歳月が必要であった。昭和五十年(一九七五年)二月ロンドンにおいて地下鉄の音で自己を忘じた再見性の体験により、始めて永遠のいのちに目覚めることができた。

あらゆるものは、この永遠のいのちにより生かされ、変化し、生滅し、出生する。だからと言って永遠のいのちという固定的なものがあるわけではない。

いのちである以上、色も形も高さも重さも一切無い。

一切無いがあらゆるものになりうる無限の性能を備えている。

これは事実であって観念によって作り上げたものではない。

ではどうしたらこの事実に気が付くことができるのであろうか。

この永遠のいのちは眼・耳・鼻・舌・身・意という我々の六根の対象として相対的に捉えることはできないのである。

しばらく六根の働きを止めて、坐禅によって完全に自己を忘じ、この永遠のいのちそのものと一体となった時に、この事実に気がつくことができる。

この永遠のいのちそのものになれば「人間は生きどおしの事実のみで絶対に死ぬことはない。」と明言することができるのである。


この永遠のいのちの中味をもう少し検討してみることにしよう。

我々はこの永遠のいのちに生かされているが、この事実を知るものは一人もいない。

我々が認識するのは、或る所で生まれ七十年乃至八十年生きてやがて死んでいく有限相対の自分とか他人とか言っている存在のみである。

現象の世界はこのとおりであって誰も疑いを抱かないが、この生まれて刻々と変化して成長し生き続けそして死んでいく自分の正体は一体なんであろうか。

普通の人はそんなことは考えても仕方がない。

太く短く細く長くかは知らないが楽しく人生を送ればよいという程度で生きていくのが通常である。


だが釈尊はこの生老病死を繰り返す人間の姿に深く無常を感じ、この自分の正体を明らかにしようと刻苦精励した。

そして二千五百年前の十二月八日明けの明星を一見されたとき、「我と一切衆生と同時に成道す」という大悟の体験をされた。

それは我(仏様)も一切衆生(我々一般人)も共に元々「無限のいのち」そのものであるという事実に気がつかれたのである。


この悟りの本質は何かというと、今まで自分自身と思っていた全自己(身も心も)はまったくカラッポ(空)であって、自分というカタマリは全く無かったという事実であります。

カラッポというと何も無いのかというと違います。

カラッポだからこそ何にでもなりうる無限の性能を備えている。これが我々のいのちの本質であるということなのです。


これを分かり易く譬えてみると、我々の右手と左手のようなものである。

右手が自分左手が他人と考えると、通常は右手と左手は相対立し、自分の親指は太いが小指は短い。

自分の中指は背が高いが他人の中指は不細工だと比較して、現象の世界しか見えないし、その上に立った競争や妥協に明け暮れている。

しかしよくよく見ると、それは一つの命を生きている右手と左手であって、通常その働きは空気と同じように意識しないが、一つの命が本当に働く時は右手で球を投げ左手で球を受けるというように絶妙な力を互いに発揮している。


そして一度この本当に生かされている命に気がつくと、右手と左手の相互関係が全く違った価値観で位置づけられ活用をはかることができるようになる。

しかもこの命は色も形もにおいも重さもない。

しかし何も無いのではなく右手も左手も自由に動かす無限絶妙な力を持っている。

この中味カラッポだが無限の能力を備えている命を観念や思想を媒介せずに掴まえるのが悟りであって、禅は決して奇妙不可解なことをいっているのではありません。

この関係は自分と宇宙万物との関係についてもいえるのであって、本来の自己と宇宙の真の事実は中味カラッポでしかも無限の性能を持つ内容において全く同一であります。


(「暁鐘」255号山田耕雲老師追想特集から抜粋)








   

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20代のころは、いつも何かを目指して、向上心もありましたが、30歳を過ぎたころから、そういう情熱や意欲がなくなっていきました。 昨日書いたような、経済的危機も迎えました。 なぜそうなったのか、僕の場合の答えは明白です。 皮肉にも、存在への気づき、 ... 続きを読む
20代のころは、いつも何かを目指して、向上心もありましたが、30歳を過ぎたころから、そういう情熱や意欲がなくなっていきました。

昨日書いたような、経済的危機も迎えました。

なぜそうなったのか、僕の場合の答えは明白です。


皮肉にも、存在への気づき、目覚め体験があったからです。

その日を境に、お金、物、実績、評判、この世の何もかもに興味を無くしていきました。

気づきを伝えたいという思いはありましたが、それ以外にやりたいことも失せていました。


何がどうなろうと、宇宙は完璧で、自分自身も何か増えるわけでも減るわけでもなく、なんでもOKだという思いでした。


いまもよく覚えているのは、浜松の家で縁側に座り、庭をぼんやりと見ながら、「オレは隠居したんだよな」と感じていたことです。

男としては、一番血気盛んな年齢でしたが、心の中は老人のようでした。



何を得ても得なくても、何をしてもしなくても、実は同じこと。

やらなければいけないことも何一つないし、あるべき姿もないのだから気楽に過ごすとしよう。


欲しいものもないし、やりたいこともないし、流れのままに生きていこう。

贅沢がしたいわけでもないし、家族のニーズを満たしてあげられたら、それ以上は何も要らない。


沖縄に引っ越してからも、しばらくはそんな気持ちでした。


実はいまも、似たような感覚はあります。

ただ、少し変わり始めました。

それは、このブログを始めてからだと思います。


コメント欄で、ブログの内容が役に立ったとか、救われたとか書いてもらうと、人の役に立つことの喜びが理屈なしで湧いてきます。

好きなことをしているのに、こんなに喜んでもらえるのは、ありがたいし面白い。


それで調子に乗って、講演会を全国展開し始めたら、これもまた面白い。

なんだかワクワクする気持ちが蘇ってきたのです。


どちらにしても同じならば、次々とワクワクすることをやって、より楽しく、より快適に、あれやこれやを手に入れて、少しは贅沢も味わってみようという気になりました。

それが3年くらい前のことです。


それからは引き寄せの法則(?)が機能し始めて、いまに至ります。





生活は一変し、これはこれで楽しいし、イキイキしています。

音楽も再開しようと思っています。

捨て犬や捨て猫の救済活動も始めようと思っています。


いままでの生き方が間違っていたとは思わないけれど、いまの生き方も満更じゃありません。

もしかしたら目覚めた後は、目覚めの境地に安住してしまう時期があって、人によってはそのことも変化していくのかもしれません。



繰り返しますが、どちらにしても同じこと。


どうせ同じなら、もう一度夢でも見てみるか。

そんな心境の、初老の秋です(^o^)









   

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いま現在、経済的に大変な思いをしている人もいるかと思いますが、僕の経験談を書いてみます。 結婚し、子供が生まれ、扶養家族が4人、叔母をホームヘルパーとして家に迎え入れなければならなくなり、そして母への仕送り・・・ たくさんの負担が肩にのしかかってい ... 続きを読む
いま現在、経済的に大変な思いをしている人もいるかと思いますが、僕の経験談を書いてみます。


結婚し、子供が生まれ、扶養家族が4人、叔母をホームヘルパーとして家に迎え入れなければならなくなり、そして母への仕送り・・・

たくさんの負担が肩にのしかかっていました。

子供の紙おむつが買えない時期もあり、妻も大変だったと思います。





方広寺でセミナーを始めたものの、浜名湖の北にある山奥のお寺にまで足を運んでくれる人が、そうそういるわけではありません。

収入が底をつき、「こんどこそもうダメかも」と思ったことも何度かありました。


そんなころ、僕を救ってくれた考え方が幾つかありました。

このブログでも、何度も紹介してきました。

ここに綴ってきたアドバイスは、僕自身が経験として学んできたことです。



ひとつは、いつも「いま」なのだから、明日のことは心配せずに、目の前のことに取り組もうというもの。

人間ができるのは、一度にひとつだけで、それはどんな人も同じなのだから、とにかくひとつひとつできることからやっていこうと思いました。

なんであれ行動すると落ち込んでいる暇がなくなります。

反対に、長時間落ち込んでいる人というのは暇な人なのです。

そんな時は、身の回りの掃除でもいいから、何かすることをお勧めします。



もうひとつ役に立った考え方は、一休禅師が残した遺言書です。

寺の存続がどうにもならなくなった時に開封するように言い残して死んだ遺言書を、寺がどうにもならなくなった時に開けてみたら


「心配するな、なんとかなる」

と書かれていたそうです。

物事は必ず何とかなるし、ならなければならないなりに、そこからまたなんとかしていけばいいだけだと思いました。



そしてもうひとつが、人間万事塞翁が馬。

そのとき悪い出来事だと思ったことが、次の素晴らしい出来事のために不可欠だったりするので、流れを信頼してお任せしようと思いました。


それが、「南無」「思召すままに」の精神です。

何が起きても、それが神の意志ならば受け入れようという絶対的な信頼。

この気持ちがあったから、いま思えば首の皮一枚で大変な時も、どこか気楽に乗り切れたように思います。


いつか書きますが、方広寺での活動を支援してくれたのは、天河で偶然出会った人たちでした。

不思議な力に助けられてきたことは事実で、大きな力が後押ししてくれているという実感は増すばかりでした。

うまくいかなくなると、「今度はどんな形で助けてくれるんだろう」と思ったくらいです。


そして決定的だったのは、いついかなる時も、目覚めの感覚が底辺に流れていたことです。

もし気づきがないまま同じ状況に置かれたら、精神を病んでしまう人がいるかもしれない、それくらいの状況を生きてきたように思います。



若いころは大変な思いもたくさんしましたが、あのころといまと、決定的に違うことがあります。

それは、現実を自由に作り出していける能力が備わったことです。


特にボブさんと出会ってからは、願望が形になる時間が短縮されていきました。

「空」(くう)と頻繁に出会えるようになったことが大きかったと思います。




ひとつだけ言えることは、

「人生無駄なし」



出会うべき人とは必ず出会う。

しかも、一瞬早からず、遅からず。



したがって



南無



思召すままに




大丈夫ですよ(^o^)








   


・・・・・・・


10月2日(火) 沖縄いまここ塾

今回は会場の都合で8時半開演となります。

お気を付けください。

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昨日のみなさんの答えは想像以上でしたよ。 その気持ちがあるのなら、もう結果を得たも同じです。 彼(?)は皮肉なことに、あなたが忘れたころにやってきます。 あるいは、「なかなか来ないなぁ、もういいや」とあきらめたころに。 そのとき、いままで学ん ... 続きを読む
昨日のみなさんの答えは想像以上でしたよ。

その気持ちがあるのなら、もう結果を得たも同じです。


彼(?)は皮肉なことに、あなたが忘れたころにやってきます。

あるいは、「なかなか来ないなぁ、もういいや」とあきらめたころに。


そのとき、いままで学んできた真理の言葉たちが、あなたの究極体験を承認してくれることでしょう。

頭で理解していた言葉たちが、イキイキと命を持って、より深い意味として全身を貫くのです。


いつ彼(?)がやって来るかは決まっていますが、いつなのかを僕は知っています。

あなたも知っていますよね。


そう、それは・・・いまです。


これだけは確かです。

目覚めが起こるのは、必ず「いま」だということ。


だって目覚めとは、時間という幻想からの目覚めなのだから。

永遠のいまへの帰還なのだから。


「おかえり」



「ただ・いま」




こうやって同じ話を言い続けるんだろうな。

だって、他にやりたいことないし。



お互い覚悟が決まったら、心のままにとことん生きましょう。

あなたが目覚めるのは確実だし、この世においてもあなたの願望はすべて叶うし、なんだって思い通りですよ。

だってあなたの中で生きているのは、招待している主人その人だから。


本当のあなたが、創造主その人です。




えっ?そうだったの!?




そうだったんです。


驚きましたね。



それでは、ご一緒に











がちょ~~ん♪










   


・・・・・・・・・・・


10月8日 仙台講演会は残り席わずかです。

詳細はコチラから。



雲 黒斎くんとのコラボ講演会「阿雲の呼吸」は以下のスケジュールです。


◎10月21日(日) 札幌
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◎11月3日(土) 松山
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◎11月4日(日) 福岡
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僕たちは精神霊的な真実を学びたいと思っていますが、本当の真実は自己の不在性に気づくことでしかありません。 その気づきの体験が、「神」です。 その体験の中で初めて、いままでも、いまも、そしてこれからも永遠に完璧であることを知ります。 「自分」と「自 ... 続きを読む
僕たちは精神霊的な真実を学びたいと思っていますが、本当の真実は自己の不在性に気づくことでしかありません。

その気づきの体験が、「神」です。

その体験の中で初めて、いままでも、いまも、そしてこれからも永遠に完璧であることを知ります。


「自分」と「自分の人生」を握りしめている間は、取り巻く周囲の不完全さが目に映ります。

飢餓や紛争、そして身近な人間関係や、経済的な問題もあります。

これらの夢はリアルなので、幻想だなどと言われたら腹立たしくさえ思います。

量子の科学は、物質など存在しないことを突き止めましたが、そうは言われても鉄は固くて、頭をぶつければ痛いという感覚もあり、理論的に理解できても実感は伴いません。



それでも言います。


あなたは存在せず、神だけが存在します。

時間の中で起こるあらゆる出来事は幻想で、「いま」しか存在せず、実際には何も起きていません。


人生で抱えている問題は、次から次へと形を変えて出現し、決して無くなることはありませんが、「自分」と「自分の人生」が、大いなる気づきと共に消えうせたとき、一切の問題も霧のように消えていきます。

初めて味わう心からの安心感、幸福感、本物の愛。


後にまた、肉体感覚がよみがえり、前と同じように人生が続いていきますが、同じようでいて同じではありません。

理解の痕跡が、存在の一部として刻まれているからです。


いまや多くの人にこの理解の瞬間が訪れようとしています。

まさにいまが、その過渡期だと感じています。





僕たちは真実を知りたいのですが、本当は知りたくないんです。


数か月前に、みなさんにこんなことを聞きました。

もし神様が現れて

「はい、ここまでです。おつかれさまでした」

って言われたら、どうしますかと。


もちろん肉体の死のことではありません。

今まで人生だと信じていたストーリーや、それを生きてきた「自分」が、いまこの瞬間に消えてなくなるとしたらどうするかでした。

実際には消えてなくなるのではなく、最初からなかったものを「なかった」と見抜くだけですが。



あの日の質問に対して、

「いまは、やりかけのことがある。もう少し待って欲しい」

と言った人もいましたね。


それでは、

いまならどうですか。

少し待ちましたよ。


えっ?少しって数か月じゃなくて、数年のことだって?


数十年ですか?


いいでしょう。

それまで待ってもらいましょう。


でもその時になったら、きっとあなたはこう言うことでしょう。


「いまは、やりかけのことがある。もう少し待って欲しい」



これと同じような話が、聖書に出てきます。

神の使いと商人とのやり取りです。

そのままではありませんが、概要を書くと・・・


ある日のこと、神の使いは商人の家の門を叩いてこう言いました。

「主があなたを屋敷に招待したいと言っています」


すると商人はこう言います。

「いま大切な商談が始まっています。それが終わってから招待を受けさせてください」


数週間して再び神の使いがやってくると、今度は、「親戚の結婚式があるから」と言って、また延期を申し出ます。


そうやって人は何千年も先延ばししてきたという訓話です。


あれからさらに2000年が経ったけれど、まだ僕たちは先延ばししているのかもしれないですね(^o^)


どうですか、今夜あたり。









   


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あなたはどちらだと思いますか。 僕は、人との出会いも別れも、そのタイミングさえも、全部決まっていると思います。 すべては縁の中で生じています。 そのような証拠をたくさん見せられてきたし、過去も未来も全部同時に「いま」の中にあることを感じた時など ... 続きを読む
あなたはどちらだと思いますか。


僕は、人との出会いも別れも、そのタイミングさえも、全部決まっていると思います。


すべては縁の中で生じています。

そのような証拠をたくさん見せられてきたし、過去も未来も全部同時に「いま」の中にあることを感じた時など、全部あらかじめ決まっていたことを確信します。



その一方で、引き寄せの法則と言われる現象が実在するのも、自分の半生を振り返ってみて確かなことです。


はたして、物事は決定づけられているのか、それとも各自の選択によって展開しているのか、そんな質問を受けることもしばしばあります。


僕はこのように思います。

実は誰もが、あらかじめ自分の人生の展開を心のどこかで知っていて、それを知っているからこそ強く願うのではないかと。

願ったから叶ったのではなく、そうなること知っていたから願ったのだと。


もうひとつ違う角度から説明すると、やはり物事は決まっていて、その物事を自分が引き寄せたと言う人は、引き寄せようという思いさえも決まっていたということです。

引き寄せの法則を学び、それを実践して首尾よく願望が実現したという人は、引き寄せの法則の情報と出会うことも、それを実践することも決まっていたというわけです。

だったら多くの人に、願望が実現する秘訣を開示してみたいと、僕や、ボブ・フィックスさんや、黒斎くんは思っているのです。


結論を言えば、すべてが決まっているということは、個人の発想や意志や、それらのタイミングもすべて決まっているということです。


この先、右に曲がろうとして、でも運命を変えようと思い左に曲がったとしたら、運命を変えようという発想も左に曲ることも決まっていました。


この文章を読んで、「そんなことはない、決まってなんかいるものか。それじゃロボットじゃないか」という抵抗の思いも、あらかじめ決まっていたことです。


あはは、キリがないですね。

決まっていようといまいと、一瞬先のことは分からないのが人間稼業で、どうせ決まっているなら最高に楽しめる人生であってほしいという人は、最高に楽しめる人生を発想してその方向に行動していけば、引き寄せることができますよ。

それも決まっていたことですが(笑)







最後にとっておきの秘密。

決まっていると言うけれど、それを決めたのは「あなた」(宇宙的なあなた)です。


宇宙的なあなたは、今回そういう人生を経験してみたかったんです。

だからどのみち、願望は実現しているわけです。


いいも悪いもありません。

いろんな経験をしていろんな感情を味わってみたいというのが、宇宙的あなたの想いですから。



すべてはうまくいっています。

計画は完璧です。









   


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