かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2015年02月

僕たちは新興宗教のみならず、伝統宗教にも真実の教えに対する期待を持たなくなってしまいました。 それは仏教というものが政治的に利用され、檀家制度としての役割を担いだしたことに帰因します。 いまや葬式と法事と観光を生業とする、単なる商売になってしまいまし ... 続きを読む
僕たちは新興宗教のみならず、伝統宗教にも真実の教えに対する期待を持たなくなってしまいました。

それは仏教というものが政治的に利用され、檀家制度としての役割を担いだしたことに帰因します。

いまや葬式と法事と観光を生業とする、単なる商売になってしまいました。

もとより真実は仏教の専売特許ではなく、ありとあらゆる人の存在基盤なので、そのような意味から言えば、仏教の権威が失墜したとしても、真実が損なわれることはありません。


そんな中にあって、実際に命がけで真実を探求し、一切のまやかしなく体現した本物の仏僧もいます。

数は極めて少ないですが、僕は幸運にも2人の真理体現者と出会うことができました。

一人は向老師です。


そして、もうお一人が堀澤祖門師です。

師は京都大学在学中に、導かれるようにして比叡山にのぼり、そのまま出家得度します。

戦後初めてとなる、12年間の山籠もりの行を満行後、さらにインドにわたり何人もの覚者を訪ね歩き、その経験を基にして、本来の大乗仏教の使命である、在家への仏道の学び舎を作ります。

仏教界の異端児ですが、いまは最高位ともいえる三千院門主に就任されています。


師が4年前に、韓国の仏教界に提出した論文があります。

それは仏教が本来の役目を忘れた現代にあって、一般衆生の中から民衆に真理を説く者が現れているという報告です。

その中で不肖阿部のことを紹介してくれました。


来週末に延暦寺会館で行われるイベントは、そんな堀澤師の前で、いまの若きメッセンジャーたちを紹介することが目的の一つです。

即日完売になったイベントですが、若干のキャンセルが出ましたので、3月2日までの期間限定で、再募集させてもらいます。

二度とない機会ですので都合がつく方はいらしてください。

僧侶の皆さんからも、歴史的イベントだと評価を頂いています。


今日は、堀澤師の論文の冒頭を紹介します。


一般人の「さとり」体験とその活動  三千院門主 堀澤祖門


(1)はじめに

今、世界で起きている現象に、一般人が「さとり」体験をしてその体験やメッセージを広く発信し始めているということがある。

もともと佛教は仏陀の「さとり」体験を原点としてスタートしている。

そして仏陀はその「さとり」体験から教えを説き、かつ弟子たちに自分と同じ「さとり」体験をするように指導された。

その意味で、佛教は何よりも「体験」を最重視する。

ある意味で佛教と他の宗教との根本的な違いを言うなら、佛教は「人間による体験の宗教」であり、他の宗教は「神による教えの宗教」であると言えよう。

しかし、その仏陀の「さとり」は余りにも卓越したものと受け取られたので、特に大乗の般若経典では三阿僧祇劫もの長期間にわたって何度でも生まれ変わり修行を繰りかえす必要があると説く。

だから大乗経典における作仏(成仏、仏になる)とはこのように長年月の修行を必要とするものであった。

ところが、その大乗仏教の中で唯一現在のこの肉身で成仏することが出来ると説いたのはいわゆる禅宗である。

禅宗では、仏陀の真の教えは言葉ではなく身体で体得するものとした。

拈華微笑(ねんげみしょう)の話はこの間の消息を伝える。

或るとき仏陀が法を説き終わったが、なお弟子たちに真髄を伝えられない。

これ以上は言葉で伝えることが出来なくて、たまたま卓上にあった一輪の華を取り上げてこれを拈(ひねる)じたという。

それを見ても誰も反応しなかったが、ひとり摩訶迦葉だけがその真意を理解してにっこりと微笑んだという。

仏陀はその摩訶迦葉だけに印可を授けた。

こうして伝えられた正法は転々と伝持されて達摩に伝えられ、その達摩によって中国へ伝えられ、やがて日本にも伝えられた、と。

しかし、その禅宗でも現在では「さとり」体験者は極めて少なく、やはり狭き門として雲の上の出来事のようになってしまっている。

「体験の宗教」が体験を失ってしまうとともに、佛教の力は急激に衰え、世間における存在感も、はなはだ希薄なものとなってしまっている。

そんなとき、仏教僧でもなく禪の体験もないのに、ズブの素人、一般人の中から「さとり」体験をした上で、敢然と世間に法を説く者が次々と現れてきたのである。

これは一体どういうことなのか。

その実態をしっかりと知っておく必要がある。

そこでまず、その一人である阿部敏郎という人のケースをここに紹介してみよう。


・・・・・


このあと、僕とその活動を詳しく紹介してくれています。

長くなるので、続きはまたの機会に紹介します。


このような変化は時代の必然であり、あなた自身もその流れの中にいることを知ってください。


延暦寺会館のイベントの詳細はコチラから。


。。。。。。


今日はつい先日行われた東京講演会の模様の動画サンプルをお届けします。

わずか5分足らずですが、自分なりに真実を言いきっています。

前回ラジオを聞いてくれた人は、トップページ右上の「ログイン」画面から入れます。

初めての人も、同じくトップページ右上の「新規登録」から簡単な手続きで見ることが出来ます。

コチラから

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とあるスピ系の教師が、なにかにつけ 「これはエゴだ。またエゴだ。ほらこれもエゴだ」 と連発していました。 エゴとか自我とかいう言葉は、真実の存在を説明するときに欠かせませんが、しかしだからと言って、自分や他人の表れを執拗に観察し、エゴというレッテ ... 続きを読む
とあるスピ系の教師が、なにかにつけ

「これはエゴだ。またエゴだ。ほらこれもエゴだ」

と連発していました。


エゴとか自我とかいう言葉は、真実の存在を説明するときに欠かせませんが、しかしだからと言って、自分や他人の表れを執拗に観察し、エゴというレッテイルを次々に張っていく姿には呆れます。

そうやってエゴだエゴだと騒いでいる部分こそが、エゴ以外の何物でもないからです。


また、ある教師は言います。

エゴを滅却すること、エゴを消滅させること、そのために努力しなさいと。


まるでエゴという実体があるかのようです。

実体があるのなら闘うこともできますが、そもそもエゴとは意識の影のようなもので、エゴ自体が存在しているわけではありません。

影と闘うことは不可能です。


確かにエゴは、さも自分(エゴ)が存在するかのような顔をして、あれこれと指図しますし、自分がいないことを証明されるのを恐れて、瞑想や静寂の中に入るのを嫌います。

「こんなことをしている場合か。もっと他にやるべきことがあるだろう」

というわけです。

そして支離滅裂な思考をバラマキ、心を分裂させ、苦悩を作りだします。

我々の苦悩のすべては混乱したエゴが作り出していると言ってもいいでしょう。


じゃあ、どうしたらいいのか。

実はどうしようもないのです(笑)


完全にあきらめてリラックスすることです。

起きていることをありのままに認めて、そのことと仲直りすること。

気楽にくつろぐこと。

すると影は消えていきます。


さとりも同じです。

もともと我々はさとった存在です。

誰もが大いなる一元の存在です。


ところが、個としての肉体と精神に同化して、「私という個人が存在している」という感覚を持ってしまいました。

それがエゴです。

そうやって分離したエゴは、こんどは大いなる一元に戻ろうと画策します。

いろんな書物を読み、深遠そうなテクニックを学び、時には苦行までして、さとりの境地に帰ろうというのです。

でもそのことに勤しめば勤しむほど、そのぶんだけエゴが強化されていきます。

先日お話しした、道の二段階。


>実際に真理を探究しだした人への次の教えは、いかに探求を止めるかということになります。


というわけです。


エゴと戦わないこと。

真理を自力で達成しようとしないこと。


エゴなど無いことを理解すること。

最初から真理を達成していたことに気づくこと。



今日はこの辺で。

何があっても気楽にいきましょう。


・・・・・・・・・


こういう話に関心を持っている人は、講演会に来てくれるのが一番ですが、来れない人のために明日から講演会の動画を配信します。

5日前に行われた東京講演会の模様です。

無料サンプルもありますので覗いてみてください。


そして来週には、いよいよネットラジオ「阿部敏郎のシャバダ・バダ」のスタートです。

最初のテーマは「創価学会」

彼らへの批判一辺倒ではなく、むしろ部外者が持つ日本人特有の陰湿な差別意識と、彼らの貢献と弊害、真理と誤謬について整理してみたいと思います。

もちろん笑って聴ける、アノ調子で(^^)


みなさんからのメッセージもお待ちしています。

創価学会員さんの生の声も聞いてみたいです。

最初のゲストは、いま人気絶頂の、さとうみつろう君。

採用させてもらったメールの中から3名様に、阿部の新刊(山川紘矢さんとの共著)、「死の秘密」をプレゼントします。

メッセージの宛先は

abeshabadabada@yahoo.co.jp


明後日(3月1日)締め切りとなります。

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よく言われる話で、親しい人が死んだあとも、残された人の心の中で生き続けるというものがありますね。 あれは事実です。 というよりも、その前から、生きていたのは各々の心の中です。 人は現象が外側に展開しているということを信じて疑いませんが、その大前提 ... 続きを読む
よく言われる話で、親しい人が死んだあとも、残された人の心の中で生き続けるというものがありますね。

あれは事実です。

というよりも、その前から、生きていたのは各々の心の中です。


人は現象が外側に展開しているということを信じて疑いませんが、その大前提がくつがえったとき、存在の実相が明らかになります。

このポイントをいかに理解するか、そのために様々な言い方でメッセージを伝えています。


・・・・・・


数か月前から、究極の話に徹しています。

究極という言い方も分かりにくいかもしれませんが、すべての真実はここに帰結するという意味です。


3月は博多と東京です。

3月22日 博多

3月29日 東京


※3月は開始時間が変わりますのでご注意ください。

詳細は各都市名をクリックしてください。



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数日後に、新刊が発売されます。 翻訳家の山川紘矢さんとの共著です。 誰もにとって必ず訪れる「死」について書いてみました。 人の心の底には、漠然とした死への恐怖が横たわっているような気がします。 死生観という言葉がありますが、死を理解することは生 ... 続きを読む
数日後に、新刊が発売されます。

翻訳家の山川紘矢さんとの共著です。

誰もにとって必ず訪れる「死」について書いてみました。


人の心の底には、漠然とした死への恐怖が横たわっているような気がします。

死生観という言葉がありますが、死を理解することは生を理解することに繋がります。

生と死は表裏一体、コインの裏表みたいなものだからです。


ですから、生きるために死を理解できたらという思いで書いたのがこの本です。

山川さんとは多くの考えが一致しています。

でも一致していないところもあります。

そんなことも赤裸々に綴った面白さもある本です。

230ページにわたり、死をテーマに展開していきます。


本文の中から僕が書いた一部を抜粋してみました。




<本文より>

(阿部)

これは、知り合いから聞いた話。

彼のお父さんはずっと病気に苦しんでいましたが、いまわの際にカッと目を見開いて、こう言ったそうです。


「よかったぁ――っ!」と


このたったひとことに、死の至福が凝縮されている。ぼくはそう感じます。

今生にはいろいろ苦しいことも、つらいこともあったでしょう。

闘病生活には苦しみしかなかったかもしれません。

と同時に、人生には嬉しいこと、楽しいこともいっぱいあったと思います。

そういった今生で起きたすべてのことを肯定したんじゃないかな。

もっと言えば、死の瞬間に「肉体はなくなっても、自分の存在はある」と実感したのか、大いなる宇宙の様相が見えたのか・・・・・・。

たぶん、他人の目や外側にこだわって生ききた今生の自分を客観視して、「なぁんだ、自作自演の独り芝居だったんだな」と気づく。

そして死の瞬間、本来のあるがままの自分、つまり魂の意識みたいなものがぶわーっと膨張していって、解放感と幸福感に満たされる。

誰もが死の瞬間にそんなふうに感じるんじゃないかと思います。

知り合いのお父さんが「よかったぁ――っ!」って言ったのも、そういう気づきから来ているような気がします。

そんなふうに死ねるのって、いいと思いませんか?

というか、ぼく自身はみんながそうなることを期待している。誰もが死の瞬間、最後の最後に救われると思うのです。

今生を生きていくプロセスがたとえ苦しいものであっても、それが自作自演のお芝居だとわかればおもしろい。

で、死の瞬間に心が解放されるのなら、十分生きた甲斐があるでしょう?

表面的に苦しんで死んでいったように見えても、「ああ、いい人生だった」って言いながら死んでいっても、それは外側から見える違いであって、魂レベルではどちらも同じことが起きていると思います。

 

99%の人が知らない死の秘密


いま注文すれば発売日(2月27日)には自宅に届くと思います。

興味がある方はどうぞお読みください。

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3回の講演が終わり、昨夜はそのまま母の家にやってきました。 母親にとっての息子というのは特別な存在のようで、僕の顔を見ると元気になるのだそうです。 母は戦時中満州に行っていて、そこで終戦を迎えます。 ソ連兵の攻撃から逃れるために、幼子二人を連れて ... 続きを読む
3回の講演が終わり、昨夜はそのまま母の家にやってきました。

母親にとっての息子というのは特別な存在のようで、僕の顔を見ると元気になるのだそうです。


母は戦時中満州に行っていて、そこで終戦を迎えます。

ソ連兵の攻撃から逃れるために、幼子二人を連れての逃避行だったのですが、残念ながらその二人の子は死んでしまいます。

弔うことも許されず、小さな亡骸を鉄道のプラットホームに並べさせられたまま、銃剣につつかれてその場を立ち去らなければならなかった無念を何度も聞かされて育ちました。

僕自身は子供のころから、そんな母を救うために生まれてきたと思ったものです。


その気持ちは成人してからも消えることはなく、母のために生まれてきたことを信じて疑いませんでした。

あるとき、人にその話をしたとき

「馬鹿だな。人生は自分のためにあるんだ」

と言われ、ショックを受けたのを覚えています。

それくらい、母のために生きていることを信じて疑わなかった、そんな子でした。


いまは人生に対する理解が変わり、違う視点で母を捉えていますが、それでも心のどこかにはまだ同じ気持ちが残っています。

人生の意味は人それぞれが作るものですが、若いころの僕の思い込みと生き方は、あれでよかったのではないかと思います。


人生いろいろ


無数のドラマが今日も展開しています。

終わってしまえば、そのどれもが夢のようなもの。



さて、今日も生きるとするか。


・・・・・・・・


捨て猫たちのレスキューに、たくさんのご支援ありがとうございました。

おかげで避妊手術だけでなく、怪我や病気の猫たちの治療費も確保できたと、みなさん喜んでくれています。


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メッセージは大きく2段階に分かれます。 最初は、真理の次元に目覚め始めた人に、どのようにそのことを追及するか、正しい方向性を示すことです。 正しい方向性とは、これから学ぶ真理への道が、新しい自我を強めていくことにならないようにすることへのアドバイスで ... 続きを読む
メッセージは大きく2段階に分かれます。

最初は、真理の次元に目覚め始めた人に、どのようにそのことを追及するか、正しい方向性を示すことです。

正しい方向性とは、これから学ぶ真理への道が、新しい自我を強めていくことにならないようにすることへのアドバイスです。

昨日の夜、オウム真理教についてのTV番組をやっていました。

僕は最後しか見れませんでしたが、彼らの最も大きなミスは、修業を通して特別な人になろうとしたことにあります。

オウムについては、決してマスコミや社会が触れない観点からお話しする機会を設けることにします。


しかし、事件を起こさないまでも、新たに自我を強化するスピリチュアルの教えのいかに多いことか。

悪意ではなく、教えている側がその段階にあるので致し方ないことです。

一時は、自分が成長したような気になりますが、また元の木阿弥だということに直面する日が必ず来ます。

そもそも、第一歩目が間違っていたら、その先どこまで進んでも真理から遠ざかるばかりです。

この狭い道をいかに理解するかが学びの第一段階です。


そして、実際に真理を探究しだした人への次の教えは、いかに探求を止めるかということになります。

まったく矛盾するように聞こえますが、これが道の二段階です。


生意気なことを言いましたが、ここはとても重要なポイントです。



話の内容が本質的になってきているのは、自分自身の変化というよりは、時代の変化と、ここに集まる人たちの質的な変化だと思います。

機が熟してきたのだと思います。


今日の昼からは東京講演会。

その後は、向老師とTHE禅アカデミーのサットサン(サンガの集い)があります。

最後は、瞑想のフォローアップの会、すべて同じ会場で行われます。


多くの方たちと時空を共にできることを感謝します。


合掌

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何か一言でも書けば乖離してしまう。 あなたはすでにそれそのものであり、大した秘密など何もないのです。 ただ目の前のいまがあるだけ。 それだけです。 ... 続きを読む
何か一言でも書けば乖離してしまう。

あなたはすでにそれそのものであり、大した秘密など何もないのです。

ただ目の前のいまがあるだけ。

それだけです。
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