かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2015年10月

今日のタイトルを読んで、献身的な生き方をイメージした人もいたことでしょう。 内容はそれとは少し違います。 友達たちと楽しく歓談してる時に、あなたにとっては初めて会う人が、その輪の中に入ってきました。 その瞬間、ふっとそれまでの自分と変わってしまっ ... 続きを読む
今日のタイトルを読んで、献身的な生き方をイメージした人もいたことでしょう。

内容はそれとは少し違います。


友達たちと楽しく歓談してる時に、あなたにとっては初めて会う人が、その輪の中に入ってきました。

その瞬間、ふっとそれまでの自分と変わってしまったことはありませんか。

それまではオープンだったのに、急に心を閉ざしてしまう経験です。


友達のことなら良く知っています。

彼らも私を知っていてくれることでしょう。

彼らの前ではどんな自分でいたらいいか全部わかっているから安全です。


でも急に参加してきた人のことは何も知りません。

この人がどんな人を評価して、どんな人を軽く見るのか何も知りません。

いつもの自分でいたら馬鹿にされるかもしれません。

急に固まってしまいました。


なぜこういうことが起きるのでしょうか。

そこには深いわけがありそうです。


人生は劇場のようなもので、人はその舞台で演ずる俳優です。

いつも無意識に観客の目を意識しながら演技は続いていきます。

多くの人がこちらを注視しています。

彼らの好意や評価を集めなくてはなりません。

彼らに嫌われたらオシマイです。

彼らに評価されなかったら生きている価値もなくなります。

そうです。私の価値を決めるのは彼らなのです。


そのとき自分という存在が、生きている自由な存在から「物」に変わります。

観客用の対象物です。

自分を生きるのではなく、他人の目の中で生きていますが、そのことに気づいていません。


他人を喜ばせてあげれば、他人の自我を満たしてあげれば、きっと他人も私の自我を支持してくれる。

そんな期待が他人に対する態度を作りだしているのです。



なぜ多くの人がこのような状態に陥ってしまうのでしょう。

それはズバリ、自分を知らないからです。


自分のセンターが定まらないまま、偽のセンターを作りだしたのが原因です。

その偽のセンターは、絶えず他人の評価を必要とします。

実際には存在しないものを、存在すると信じ続けるためには、常に存在証明書が必要になるのです。

自分が確かで健全な存在であることを証明するために、他人からの証明書をたくさん集めなくてはなりません。


実際に存在するものなら証明は要りません。

あなたの心臓も、あなたの身体も、存在することを証明する必要はありません。

でも偽物は常に証明され続ける必要があります。


これが多くの人が他人の目を意識して生きている理由です。

彼らは自分が何者か知らないのです。


真実の自己知だけが本物のセンターになることができます。

これは言葉上の表現ですが、そのセンターは他人の評価を必要としません。

その時人は初めて舞台を下りて、自分として生きることができるのです。


知識ではだめです。

細胞の一つ一つで理解するまでは、同じゲームが続いていくことでしょう。


「知ってるよ、本当は自分なんていないんだろ」

あはは、こういうのが一番危ない(笑)

これは、自分のことさえも欺こうとする自我の巧妙な罠です。



「私はいない」

実にその通りで、自分も他人の目も、すべてはマインドの創造物ですが、そのことを完全に見抜くまでは、自由に生きることはできないでしょう。

そしてこの自由こそが、我々がずっと探し求めてきた宝なのです。


これは重要なテーマなので、また改めて書かせてください。


・・・・・・・


こういう話って、ひとりでやる講演会ではよく話してきました。

実はもう何か月もソロ講演会をしていません。


急にやりたくなりました(笑)

ありのままの自分で、思っていること、伝えたいこと、全部お話ししたいと思います。


11月29日(日)

東京両国KFCホール

お申し込みの準備ができたらアップしますね。




さて今日は、大和田菜穂さんと保江邦夫博士と一緒にトークイベントをします。

これはこれで、とても楽しみにしてきました。

また報告します(^^)

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僕の活動の中心は、何かを教えようというのではなく、意識にはこのような段階がありますよという案内です。 もし僕との出会いが誰かの開眼につながればと、そんな思いでやっています。 今朝、嬉しいメールが届きました。 なんだか禅アカデミーの参加者の声みたい ... 続きを読む
僕の活動の中心は、何かを教えようというのではなく、意識にはこのような段階がありますよという案内です。

もし僕との出会いが誰かの開眼につながればと、そんな思いでやっています。


今朝、嬉しいメールが届きました。

なんだか禅アカデミーの参加者の声みたいな形で恐縮ですが、このようなメールをもらうたびに自分としては深い喜びを感じます。

ちなみに今月末に禅アカデミーは終了します。

そんなタイミングで頂いたメールです。



Tさんからです


誰しも常に「それ」と共にあり、「いまここ」に生かされている。

お二人から繰り返される言葉に日々耳を傾け、緩くも坐禅を実践していたある日、全てはひとつ、自分はいない、という強烈な一瞥体験がありました。

眼鏡を探していたら何と自分もその眼鏡の一部だったというか、全ては全体の壮大な一人芝居で、誰もいないということに気付いたら、何だかあらゆることが可笑しくなってきて、今までにないほど感激して大泣きしているのに、気付くと大笑いしていました。笑

それは夢のようでいてとても鮮やかな感覚でしたが、相変わらず自分は自分のままだし、特別な何かを得たわけでもなく、ただお二人が「禅は悟後の修行」と仰っていた意味を改めて心から理解した瞬間だったと思います。

やがてその後に大和田菜穂さんが登場し、「私はいない」ということを感覚で捉えていきました。

おかしな話ですが、わたしは親しい叔母の死をもってそれをより深く実感したような気がします。

阿部さんのお母様が亡くなられた少し前のことです。

禅アカに参加し、日々お二人のお話を聞けていなかったら、近しい存在の死にとてもショックを受けていたかも知れません。

自分がそのような境遇にいたことで、阿部さんのお母様のお話も、深く身を持って聞くことが出来ました。

これらは個人のストーリーですが、禅アカは自分が「いまここ」を生きられるきっかけになった全てです。




このような体験を禅僧がすると、やがてそれが伝説のようになり、後進の力づけになっていきます。

しかし本来この次元は、あらゆる人に開かれているのであり、誰の身にも起こり得ることです。

ここに紹介したTさんも、我々と同じ普通の女性です。

それは自らが気づくかどうかの話であり、たとえ気づきがまだ起きていないという人も、気づいた人と同じ次元に生かされています。


道を見失ったような気がする時、このままではいけないような気がする時は思い出してください。

いままでも、いまも、そしてこれからも、あなたはずっとホームにたどり着いていて、完全な愛として存在しているということを。

だからまずはそのことに安心して、目の前の現実に対応していきましょう。



何をするかとか、何を達成するかではなく、まさにいまどんな自分であるか

それが人生の全てです。

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「胸の中に炎をイメージして、自分の体はその炎の外郭の光だとイメージする」 このイメージはとても役に立ちます。 特に重たい気持ちを抱えている人は、とにかくやってみてください。 そんな気にならないのはよく分かりますが、ものは試しです。 重たい気持ち ... 続きを読む
「胸の中に炎をイメージして、自分の体はその炎の外郭の光だとイメージする」

このイメージはとても役に立ちます。


特に重たい気持ちを抱えている人は、とにかくやってみてください。

そんな気にならないのはよく分かりますが、ものは試しです。

重たい気持ちは散々試してきたでしょ?

それがどこにも連れていってくれないことも、とっくにわかっているでしょ。


新しいやり方を試す時です。

「胸の中に炎をイメージして、自分の身体はその炎の外郭の光だとイメージする」

ただそれだけです。


それを四六時中やります。

すぐに忘れるけれど、またすぐに思いだしてやります。


胸のあたりに熱を感じてみてください。

その熱があなたの怖れや憂鬱を蒸発させてくれます。


問題は、いまあなたの目の前で起きていることではありません。

問題は、あなたがその現実に対して無力感を持っていることです。


いいですか。

必ず何とかなります。

まずは自分のイメージから変えてみましょう。

あなたの中心は炎であり、体は光です。


他者からはあなたの外側の肉体しか見えません。

でもあなたは自分のことを光だと知っています。


今日一日、試してみてくださいね。

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よくここにコメントをくれる大空さんは、ハートから生きることの大切さを伝えてくれています。 ハートを日本語にするのは難しいですが、温かさや慈愛と共に、思考を使わない直感世界でもあります。 ですから多くの人は、 マインドからの選択ではなく、ハートから選 ... 続きを読む
よくここにコメントをくれる大空さんは、ハートから生きることの大切さを伝えてくれています。

ハートを日本語にするのは難しいですが、温かさや慈愛と共に、思考を使わない直感世界でもあります。

ですから多くの人は、

マインドからの選択ではなく、ハートから選べと言います。

まったくそのとおりで、どうしたら一番いいかは全部自分で知っているからです。


ハートの声は理にかなわないこともあります。

損得や安全を考えたらとてもできないことをハートは提案します。


たいていはハートの声自体を聞こうとしなかったり、聞いたとしても、強力なマインドの怖れの理屈で打ち消してしまうことがほとんどです。

本来は自分を守るために作りだしたマインドの防衛システムは、自分を守るだけでなく、自らをがんじがらめに縛る役目までしていて、人は無意識にその拘束の中を生きているのです。


そのような傾向の裏にあるのは怖れそのもので、早い話が人生への不信感です。

その不信感は「自立の精神」を高めます。

自らの力で自分を、そして大切なものを守っていかなければと思うのです。


自立の精神が高まるにつれてストレスを強く受けるようになり、やがては消耗していきます。

いくら自己が全体をコントロールしようとしても無理な話で、最後は敗北が見えているのです。


であればいつ潔く降参するかです。

全体への降参をサレンダー・「南無」と言います。

自分を手放すとも言いますが、同時にそれは全体への完全なる信頼のことです。

手放す前に信頼が必要です。

不信感の中でどうやって手放すのでしょう。


このブログは主に、自立して消耗しそうな段階の人に発信してきました。

自力で、自分のやり方で頑張って生きてきて、もう疲れてしまったし、進むべき道も分からない、そんな人に語りかけてきました。


このプロセスは人間が次の段階にシフトするために通らざるを得ない段階であり、そういう意味ではどんな道のりを経ようが、誰もの人生は上手くいっています。

究極的には「分離した自己の不在」という真理の発見で旅は消えるのですが、その前の段階として、自分の人生の流れを信頼する、全体を信頼するということが大切だと思います。


そのような意味でもハートの開発はとても重要ですが、最近頂いたDVDは、そのあたりを分かりやすく伝えていました。

ザ・パワー・オブ・ザ・ハート [DVD]



この数日、僕のもとにハートに関する情報ばかりが届きます。

ひとつは僕自身がもういちど見直さねばならないものへのメッセージだと思います。

この先の人生は、あらゆるエネルギーの源がハートであることを心がける、そこがもっとも大切だと教えてくれていると思いました。



それではまた(^^)

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「生まれもしないし、死にもしない」 普段からそう言っている僕が、今日は生死にまつわる一日を送ります。 まずは僕のことですが、本日また誕生日を迎えました。 生まれて初めての60代を生きていますが、いままでの人生で一番面白く、身体も若いし、60代が ... 続きを読む
「生まれもしないし、死にもしない」


普段からそう言っている僕が、今日は生死にまつわる一日を送ります。


まずは僕のことですが、本日また誕生日を迎えました。

生まれて初めての60代を生きていますが、いままでの人生で一番面白く、身体も若いし、60代がこんなにいいなんて夢にも思いませんでした。


20代は生き残るために必死でした。

30代は自分の内側の真理と、社会とのギャップに戸惑いました。

40代で少し楽になり、50代はもっと楽になり、そしていまが最高です。


いまだ病気らしい病気を知らず、このままどこまで生きるのか、同じく健康体だったおふくろの言葉じゃないけれど、

「もしかしたらアタシは死なないんじゃないか。それだけが心配」


もっともそんなおふくろも、今年95歳の大往生、無事に死ぬことに成功しました。

壮大なドラマが完結したかのような、そんな見事な死でした。


先日は富士山にあった父の墓を墓終いし、今日は母の遺骨と共に新しい都内のお墓に納骨します。

骨壺の中に両親がいるとは思わないし、実際には弔うものも何もないのだけれど、文化と歴史が作りだした社会の風習にも、あえて逆らうことなく順応して生きています。


これが30代で父を亡くした当時と、いまの僕の内側の違いです。

あのころは真理に目覚めたばかりで、この社会を一段低く見ていて、何かと常識はずれな生き方をして特別さを楽しんでいました。

いまはそれも落ち着き、「こうだ」というものを持ち運ばなくなりました。


順応できるほど楽になります。

だから歳を取るごとに順応性が増していった場合は、どんどん人生が快適になっていくのかなと、そんなふうにも思います。

いい意味で、どのみち、どうでもいい(^^)


今日は、昼は納骨式、夜はささやかな誕生会。

まさに「生死」と向き合う一日です。


あなたの今日が、いい日でありますように。

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昨日のコメントに、自分が死んだら旅立っていった大切な家族に会えるかというような質問がありました。 死生観はたくさんあるでしょうが、今日は僕の感じているままを話してみます。 こういったことは、断定してはならず、あくまでも一つの考えとして聞いてください ... 続きを読む
昨日のコメントに、自分が死んだら旅立っていった大切な家族に会えるかというような質問がありました。


死生観はたくさんあるでしょうが、今日は僕の感じているままを話してみます。

こういったことは、断定してはならず、あくまでも一つの考えとして聞いてください。


まず、先に旅立った家族ですが、いまも生きています。

それは二つの形で生きています。

ひとつは、彼らを生かしていた全体エネルギーとして、一つなる生命として、いまもこれからもあり続けます。

それはあなたも同じことで、まさにいまも、本当のあなたはそのようにして在ります。


もうひとつ彼らが生きているのは、あなたという全体意識の戯れの中です。

あなたが思い出すたびにその存在が現れますが、そこに現れるのは、生前に会っていた彼らと何も変わりません。

生前の彼らも、あなたという全体意識の戯れの住人だったからです。


さてそれでは、先に逝った人にあの世で会えるかということですが、それは起きません。

がっかりすることはないです。

会えないのではなく、会う必要がなくなります。

すべてが満たされ祝福されているので、すでに何のニーズもなくなっているのです。

それでもとにかく会いたいと強く願えば、我々の意識は何でも作りだせるので、あの世での再会もあるのかもしれません。


まとにかく、何事も断定しないということで。

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今日は日曜日。 あなたはいま、どんな風に過ごしているんでしょうか。 何を考えていますか。 一人一人ものすごく違うでしょうね。 味わっている感情も違うし、それぞれが全く違う世界に生きています。 それぞれが作った世界を見たいような見たくないよう ... 続きを読む
今日は日曜日。


あなたはいま、どんな風に過ごしているんでしょうか。

何を考えていますか。

一人一人ものすごく違うでしょうね。

味わっている感情も違うし、それぞれが全く違う世界に生きています。


それぞれが作った世界を見たいような見たくないような、興味津々ですが見るのもちょっと怖い(笑)


まったく違う世界に生きているということを受け入れると、相手に対する見え方が変わってきます。

たいていの場合は、人は自分が生きる世界を客観的世界だと思っているので、相手のこともその世界観から推測しますが、しかし相手は、それこそまったく違う世界に生きているのです。


それぞれが見ている現実は、それぞれの見方によって決まったことです。

起きた物理現象は一つでも、人の数だけそのことへの解釈とストーリーが作られ、それがそれぞれの人生に加えられていきます。


いま大きな家具屋さんが、お家騒動のようにして父と娘で対立していますが、どちらもそれぞれの立場から見れば、相手が間違っていて自分が正しいのです。

ところが相手も同じように考えるので、そこに対立が始まります。

人間同士の争いは、どちらが本当の正しさかではなく、お互いが持っているそれぞれの世界と世界の争いなので、どちらが作った世界を優先させるかという争いです。

これが人生で頻繁に起きている摩擦の正体です。



さてこうなると、身の上話や、思い出話は全部、その人の思いこみが作った架空のストーリーだってことになります。

それは、その通りなのです。


我々が後生大事にしている人生という物語も、実際は思いこみが作った記憶を繋ぎ合わせているだけで、実体はありません。

しかもその思いこみは未来まで予想しています。

その未来はたいていの場合、その人の過去の物語の延長です。

ですから、過去も未来もその人の幻想だというのです。

すべてマーヤです。


そして残ったもの、それだけが実在しています。

その実在を

「これ」

だの

「ここ」

だの、

「それ」

だのと呼んでいますが、いまという永遠である全体のことです。



今日もいい日でありますように(^^)







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