かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2016年04月

もし明日、地球がほんの少し身震いすれば、地上の文明は一瞬にして消滅してしまう。 もし人類に「今日」しか残されていなかったら、どんな今日になるだろう。 略奪や暴行が多発するのだろうか。 自暴自棄になる者も出てくるだろうが、それが避けられないことと分 ... 続きを読む
もし明日、地球がほんの少し身震いすれば、地上の文明は一瞬にして消滅してしまう。

もし人類に「今日」しか残されていなかったら、どんな今日になるだろう。


略奪や暴行が多発するのだろうか。

自暴自棄になる者も出てくるだろうが、それが避けられないことと分かれば、意外と静かに最後の日を送るのではないだろうか。


自分のものを溜めこんでも仕方がない。

自分のもの?

他人のもの?

そんなことはもうどうでもよくなる。

最初から何一つ、誰のものでもなかったことが分かるだろう。

所有というのは時間の中のことであり、時間がなければ所有することに意味はない。


意見の違いも人生観の違いも重要じゃない。

そんなことは、最初からどうだってよかったんだ。


成功者も落伍者も、一切関係なくなる。

だいたい、何に成功して、何から落伍したというのか。


もし今日一日しかなければ、みんな同じだ。

こうなってみてやっと、最初からみんな同じだったことに、そして各々のイメージの世界の外では、何も起きていなかったことを知ることだろう。


人間界のドラマは、みんなイメージの世界で起きていることだ。

誰が偉いとか、何が正しいとか、どう生きるべきかとか。


そんなことより、みんなで心を寄せ合って、与えあって、愛し合って、仲良くできたら、他に何が必要だろう。


その気になれば、いまこの瞬間にそんな関わりが持てるものを、人間が持つイメージの世界(ストーリー)はとても魅惑的で、心を捉えて離さない。



どうだっていいことが、さも重要そうに扱われている人間社会。

本当は、どうだっていいことばかりだ。


社会でうまく生きられないからって、心を痛めたり、自分を卑下する必要なんかない。

イミテーションに合わせられなくたって、何かを失ったわけじゃないから。


人と同じでなくていい。

もし今日までしかなければ、人に合わせることに何の意味があるだろう。


そんなわけでオイちゃんは今日も、時代遅れのヒッピーを生きるのであった。

楽チンが一番。


瞑想と渋茶が好きな、初老と呼ばれる今日この頃です。

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目の前を刻々と新しい場面が通り過ぎていきます。 そのことを まるで映画を見ているみたいだって表現するときがあるでしょ。 僕もそう感じる時間帯がありますが、それは映画館の座席に座って、目の前のスクリーンを見ているのとは少し違います。 一言で言う ... 続きを読む
目の前を刻々と新しい場面が通り過ぎていきます。

そのことを

まるで映画を見ているみたいだって表現するときがあるでしょ。


僕もそう感じる時間帯がありますが、それは映画館の座席に座って、目の前のスクリーンを見ているのとは少し違います。


一言で言うと、3D映画を内側から見ているというか、そこには五感からの感覚や思考もありますが、それを受け取る自分がいません。

感覚や思考も含めて映画の一部として、ただ起きているという感じです。


昨日も、地下鉄の通路でそれが訪れました。

沢山の人が行き来しているのに、彼らの中に主体が見えません。

ただ全てがシナリオ通りに刻々と展開している感じです。

でもその一人一人は自分の意思で歩いていると思っているようです。


全部が同時に在り、単独に分離しているものは何一つありません。

そんなものはあり得ません。

ひとつの有機的な現れなのです。


こういう感覚の時間帯は、たしかにエネルギーの解放が起きていて、逆に言えば普段の自我を持った我々は、エネルギーが凝縮した状態なのだと思います。

ただそういうことであり、すべてこともなしです。


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Amazonがお坊さんの宅配(?)をするそうだ。 そしたら仏教会が中止を求めた。 「宗教行為を商品化している」 お葬式って宗教行為だとは思ってきたけれど、そもそも宗教って何だろう。 宗教行為とは死者を弔うことなのか。 では、弔うとはどういうこと ... 続きを読む
Amazonがお坊さんの宅配(?)をするそうだ。

そしたら仏教会が中止を求めた。


「宗教行為を商品化している」


お葬式って宗教行為だとは思ってきたけれど、そもそも宗教って何だろう。

宗教行為とは死者を弔うことなのか。


では、弔うとはどういうことだろう。

仏教のスタンスは、死者の魂が存在するということを前提としているのか。

そして、死者の魂は、死後の扱われ方によって影響されるのか。

釈迦はそのようなことを教えたのか。


僕はどうだっていいのだが、こういうことの中に、人間社会の深い欺瞞を見てしまう。

社会は、表面的正しさによってかろうじて維持されているけれど、まことに歪(いびつ)なものだと思う。


だから、あんまり深刻に考えても馬鹿らしい。

みんなで自己暗示という夢の中に生きているのだから。


人生全体が、歪な社会の中でのドラマだってことを、ユーモアの精神を持って見れたらいい。


そうしたら、もっと気楽になれるから。


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二元の世界は、「私」と「私以外の全ての人」によって成り立っていますが、そこに見える「私以外の全ての人」は、「私」の投影に過ぎません。 他者は、見た目も、性格も、生い立ちも、何もかも違いますが、そこに見ているのは自分自身の様々な側面です。 人は自分にな ... 続きを読む
二元の世界は、「私」と「私以外の全ての人」によって成り立っていますが、そこに見える「私以外の全ての人」は、「私」の投影に過ぎません。

他者は、見た目も、性格も、生い立ちも、何もかも違いますが、そこに見ているのは自分自身の様々な側面です。

人は自分にないものを他者に見ることはできません。

よく言われるように、相手に対して嫌だなと感じる点は、自分の中の嫌な面だったり、心の奥に隠された、自分でも見たくない自分自身だったりします。


たいていの場合、人は自分を特別な存在だと感じていて、他者を密かに見下していますが、実は他者も同じことをしています。

自分は人とは違うユニークな存在だという感覚も、みんなが持っているのです。

これは自我の特性なので例外はありません。


あなたが見下しているその人も、あなたを見下しているのはほぼ間違いありません。

これって滑稽でしょ?

だから人生は冗談みたいなものだと言うのです。


どちらが正しいとか、どちらが上かとか、どちらがユニークかとか、そんな競争はもうやめにしましょう。

だって本当はみんな同じなのだから。

みんな、『私』だから。


私たちが同じ一つのものだということが、知識ではなく実感として世界全体に浸透した時、そのとき初めて真の平和が訪れると思います。


みんなが自分だったとわかれば、あとは仲良く助け合っていくしかありません。

非二元の世界はもちろんのこと、二元の世界においても他者は存在しないのです。



「私しかいない」

これもひとつのキーワードですね。

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心は監獄のようなもの。 人は監獄の中から、自由になりたいと叫んでいる。 違う言い方をすれば、心を開かないのに自由を切望している。 我々にできることは、自由を掴むことではなく、心を開くことだ。 赤ちゃんみたいに パッカーンって開いたら、気持ち ... 続きを読む
心は監獄のようなもの。

人は監獄の中から、自由になりたいと叫んでいる。

違う言い方をすれば、心を開かないのに自由を切望している。


我々にできることは、自由を掴むことではなく、心を開くことだ。


赤ちゃんみたいに

パッカーンって開いたら、気持ちがいいだろうな。


大人になってから完全に心を開いたことがあるだろうか。

もし心を開いて、また傷つけられたら、今度こそ立ち直れないって感じている。


たった一人の人に対してだけでいい。

一人の人に完全に開けば、その時、世界全体に対して心を開いているから。

相手は誰でもいい。

開くことが必要なだけ。


そうなったら、真理なんかいらない。

パッカーンでオシマイだ。


今朝、目が覚めた時、そんなことを思った。

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天変地異のたびに感じます。 僕たちの生活は、実に脆弱な基盤の上に成り立っていると。 なんとなくこのまま日々が続いていく気がしますが、それがそうではないことを思い知らされます。 それはある意味、「今生きている」ということを、コントラストのように鮮明に ... 続きを読む
天変地異のたびに感じます。

僕たちの生活は、実に脆弱な基盤の上に成り立っていると。

なんとなくこのまま日々が続いていく気がしますが、それがそうではないことを思い知らされます。

それはある意味、「今生きている」ということを、コントラストのように鮮明にしてくれますが・・・


みんな同じ船に乗っています。


あなたは地震についてどのような考えを持っていますか。

中には怖くて怖くてという人もいることでしょう。

3・11の直後、東京に戻った時のあの静けさが忘れられません。


被災地の皆様に、心よりお見舞い申し上げます。
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いまの人生の半分に差し掛かったころ、もしかしたらこの人生には意味がないのではと思いました。 楽しいことや辛いことの繰り返し。 達成感と挫折感の繰り返し。 努力して人が羨むような立場になったとしても、自分の内側は何も変わっていません。 むしろ賞賛が ... 続きを読む
いまの人生の半分に差し掛かったころ、もしかしたらこの人生には意味がないのではと思いました。

楽しいことや辛いことの繰り返し。

達成感と挫折感の繰り返し。

努力して人が羨むような立場になったとしても、自分の内側は何も変わっていません。

むしろ賞賛が増えれば、その分だけ内側の貧しさが鮮明になります。

どこにも行きつかない。

ただ同じことの繰り返し。


人生の教師たちは、こんな僕の感想を否定します。

それはまだお前の努力が足りないからだと。

頑張って生き抜くことに意味があると。


でもそんな言葉たちは、僕に影響を与えることはできませんでした。

人生に意味がないことは、すでに確信の域だったからです。


これが探究の始まりになりました。

ここに集まる人たちの中にも、同じような人がいることでしょう。


でも完全に見抜くのは稀です。

まだどこかに、この人生の延長線上への期待が残っているからです。

いつかすべてが解決し、満たされる日が来るはずだという期待です。


後半の人生で、確かにその可能性があることを知りました。

しかしそれは、この人生の延長線上ではありません。


最初は一瞥から始まりましたが、この人生を超えた、もう一つの世界を知ったのです。

その世界は、通常僕たちが人生と呼んでいるストーリーが全くの幻想に見えるくらい、とてもリアルな世界です。


それを知ってからは、人生には意味があると考えるようになりました。

人生とは、人生を超えていくためにあるのだと。


知識や記憶を基にして、その世界を描くことはできません。

それは全くの未知なる世界です。

知らないことを、知っていることで理解することはできません。

未知は既知の積み重ねでは知ることができないのです。


それは不意のインスピレーションのようにして訪れます。

何気ない瞬間に、急に至福に包まれた経験を持っている人もいるでしょう。

何の脈絡もなく、それは突然訪れます。

そんな経験も、探究に向かうきっかけになります。


人生が無意味だというきっかけは否定的なスタートですが、突然訪れた至福感から探究が始まったとしたら、それは肯定的スタートと言えるかもしれません。

否定と肯定という表現をすると、まるで肯定のほうがいいような気がしますが、どちらも同じことです。


人生は人生を超えるためにある。

そんな風に感じながら、今日も生きています。


いまから大阪に向かいます。


あなたの一日が、素晴らしいものでありますように。



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沖縄瞑想リトリートの募集を開始します。

6月2日~6日まで、今帰仁(なきじん)の里で開かれます。

日常の感覚から離れて、命の洗濯にいらしてください。

いままでに味わったことがない、とても素晴らしい経験になると思います。

詳細はコチラから 満員のため受付を終了しました


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