かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2017年05月

この数日間はネットから離れて静かに過ごしています。 今日からさらに数日間、瞑想生活に入ろうと思うので、またタイミングが合えばブログの更新をさせてもらいます。 うまく言えませんが、愛しています。 いつもありがとう(^^) できたら一日に一回ずつ ... 続きを読む
この数日間はネットから離れて静かに過ごしています。

今日からさらに数日間、瞑想生活に入ろうと思うので、またタイミングが合えばブログの更新をさせてもらいます。


うまく言えませんが、愛しています。








いつもありがとう(^^)






できたら一日に一回ずつクリックしてくれるとありがたいです。

  
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先日、瞑想伝授に来てくれた女性が、帰りがけにこんな話をしてくれました。 「人間には自由意志がないと聞いて、何も選べなくなってしまった」 こういうことって起きがちですよね。 現象界を超えたメッセージを、そのまま現象界に持ち込むと支障をきたすことがあります ... 続きを読む
先日、瞑想伝授に来てくれた女性が、帰りがけにこんな話をしてくれました。


「人間には自由意志がないと聞いて、何も選べなくなってしまった」



こういうことって起きがちですよね。

現象界を超えたメッセージを、そのまま現象界に持ち込むと支障をきたすことがあります。


中には、このような言葉が危険だという理由で、遠ざけてしまう人もいます。


言葉を誤解して混乱するよりは、むしろ無視して遠ざけたほうがいいのかもしれません。

メッセージは万人向けではなく、その人の準備に応じて価値が発揮されるからです。



さて、人間に自由意志はあるのでしょうか。

答えは、あると言えばあるし、ないと言えばないとなります。


「私」というものが確かに存在するという人にとって、自由意志は自分を証明する基本能力です。


分離した個人=自由意志

と言ってもいいでしょう。



そんな人に向かって、自由意志などないと伝えるのはナンセンスです。


そのような人には、


「自由意志によって個人の人生が作られていくので、人は自由に選んだ責任を負って生きなければならない。

いま人生で起きていることは、過去、自分が選択してきた結果だ。

人のせいにしてはいけない。」


というようなメッセージがしっくりくることでしょう。

自己責任というのは、この世を生きる上で大切な基本だからです。



一方で、個人に自由意志などないし、そもそも個人など存在していないというメセージもあります。

選択の意志さえも起きることであり、自分がやっているのではなく何もかもが起きているというわけです。

したがって誰の責任でもありません。


最新の脳科学でも、人間が自分の思考を認識するコンマ数秒前に、すでにその思考は湧いていて、「私」が考えたのではないということがデータで立証され報告されているそうです。


ですから、最初の人の話に戻れば、

「人間には自由意志がないと聞いて、何も選べなくなってしまった」

という思考も彼方から湧いたものであり、その言葉に縛られてしまったことも、ただそのように起きたというわけです。






「自由意志は存在していない」

この言葉は、これまでたくさんの選択をし、たくさんの責任や結果を抱えてきた人に向けられています。


人はある時期、徹底的に自己の選択を生きなければなりません。

そうやって消耗して初めて、もう一つの真実を見抜く段階に至るのです。

それ以前ではありません。



どんなメッセージも、違和感を持ったら離れることです。

いまの自分には必要ないということだから。


中には、離れたいのに惹きつけられてしまうメッセージがあるかもしれません。

そのような場合は、本当はもう準備ができているというお知らせだったりします。


いずれにせよ、どんな生き方にも優劣はないので、心のままに生きていきましょう。



いろいろと申し上げましたが、結論を言えば


「どうだっていい」


「なんだっていい」


のです。



このような言葉も、必要な人に向けられていることをお忘れなく(笑)






いつもありがとう。

クリックしてくれるとアタシャ嬉しい。

  



・・・・・・・・・・・



【お知らせ】

6月25日は、久しぶりに東京で大きな瞑想会をします。

初心者の方も熟練者の方も、どうぞ気軽にご参加ください。

詳細は後日お知らせします。


6月の瞑想伝授は東京で6月24日の予定です。

こちらも準備ができましたらご案内します。

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この「全体」という言葉も改めて理解する必要がありますね。 また明日にでも書いてみます。 って・・・ それを書いたときはいいけれど、明日のこの身にもなってほしい。 明日は明日で気分が違うかもしれないんだから、そこんとこよろしくお願いします。 とかなんと ... 続きを読む
この「全体」という言葉も改めて理解する必要がありますね。

また明日にでも書いてみます。

って・・・


それを書いたときはいいけれど、明日のこの身にもなってほしい。

明日は明日で気分が違うかもしれないんだから、そこんとこよろしくお願いします。




とかなんとか言いながら、今日は「全体」について書いてみます。

いざ書こうとすると、これが難しい。


言うまでもなく、全体という言葉は全体そのものではありません。

言葉はなんでも対象化してしまうので、自分の外側に全体があるような気がしてしまいますが、実際には全体だけがあり、全体の他には何もありません。



そしてもうひとつ重要な点は、全体とは部分の総計ではないということ。

部分が総て集まって全体になると考えがちですが、全体とは部分の総計以上の何かです。


それは意識、全体意識です。


全体だけがあるということは、すべては全体意識の現れだということ。

いまも、あなたを通して現れています。

全体しかないのだから、あなたも全体そのものです。



あなたが全体だということ。

ここが最も重用なポイントです。



知るべきことはこれしかありませんし、人生でやるべきことがあるとすれば、この真理の発見だけです。

あとのことは生じては滅していきますが、全体であるあなたは、生じることも滅することもありません。



般若心経にこんな言葉が出てきます。


不生不滅


不垢不浄


不増不減



これが全体であり、あなたの本質です。


全体意識、宇宙意識、仏性、神・・・

名前はともかく、これが自分の本質だと目覚めるのは根源的な救いに繋がります。






とは言うものの、目覚めることも全体に起きることであり、自己という幻想には何もできません。

自己は無力です。


でもこういう情報を聞くことで、もしかしたら自分は絶対に安全かもと思ってもらえるかもしれません。


僕ごときが言っているのではなく、お釈迦さんをはじめとして、歴代のブッダたちが異口同音に伝えてきたことだから、信じてみる価値もあるってもんで。



自分というのは、宇宙に投げ出された孤児であり、気まぐれな運命の風に翻弄される、か弱き存在だという誤解が、多くの心配や苦悩を作りだしています。



あなたは決して切り離されていません。

いつだって全体そのものだから。


きっとこのことを伝えたくて、あらゆる活動が起きていると思います。






いつもありがとう。

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よく言われるメッセージの中に 「すべては完璧」 というのがあるでしょ。 この言葉を聞いてどう思いますか? なんだか無理矢理、完璧って言い聞かせているみたいな、上辺だけの言葉に聞こえるかもしれません。 何を見ても不完全さにあふれているし、世界は問題をたく ... 続きを読む
よく言われるメッセージの中に

「すべては完璧」

というのがあるでしょ。


この言葉を聞いてどう思いますか?


なんだか無理矢理、完璧って言い聞かせているみたいな、上辺だけの言葉に聞こえるかもしれません。


何を見ても不完全さにあふれているし、世界は問題をたくさん抱えているというのに、そこに目を向けることなく

「全ては完璧」

だなんて言われたら、腹が立つ人さえいることでしょう。



このようなズレにはいくかの理由があります。


まずは、完璧という言葉の意味です。


普通我々は、何の不備もなく、何の欠陥もなく、すべてが完全で完成された状態を完璧と呼びます。

そこにマイナス要素はありません。



一方で僕なども時々口にする「完璧」は、人間の目からは不完全に見える全ての事象は、いまあるがままに起きていることであり、これ以外に起きる可能性はなく、変えられる余地が無いという観点から、完全、完璧と言うのです。


前者は全体から分離した個人の目線からの意見であり、後者は全体としての見え方です。


分離した個人からは、すべてのものがバラバラに存在しているように見えます。

人々のこともみんな個人に見えます。

そのバラバラな個人が絡み合って、仲良くなったり、いろんな問題を起こしたりしているわけで、いつもすべてが完璧なわけではないと考えます。



ところが全体から見ると、分離したものなど何一つありません。

すべてがいまという唯一の時の中で、同時に起きている表現です。


すべては全体の表現なのであって、誰かが何かをしているわけではないのです。

この視点は、個人には理解することはできません。


本当はすごく単純なことなのですが、すでに心の奥深くで、すべてが分離しているという信念を持ってしまっているので、伝わることは稀です。



ありとあらゆることは、全体の表現。



この「全体」という言葉も改めて理解する必要がありますね。


また明日にでも書いてみます。










いつもありがとう。

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今日は東京で一日瞑想会。 一人でやっていると30分間が長く感じるという人も、大勢が一緒だとあっという間に時間が過ぎてしまうと言います。 これはWeb瞑想会でも起きることです。 ネット上とはいえ、いま一緒に瞑想をしているという連帯感のようなものが出てくるので ... 続きを読む
今日は東京で一日瞑想会。

一人でやっていると30分間が長く感じるという人も、大勢が一緒だとあっという間に時間が過ぎてしまうと言います。


これはWeb瞑想会でも起きることです。

ネット上とはいえ、いま一緒に瞑想をしているという連帯感のようなものが出てくるのでしょう。


考えてみたら世界では、24時間誰かが瞑想しているわけですが、同じグループの人達が同じタイミングで瞑想するということが、なんらかの内的効果を高めているように感じます。





人の意識は体の中に閉じ込められているのではなく、我々が空間と呼んでいるすべての場に遍在しているのではないでしょうか。

それが影響しあう。

遠隔療法なども同じようなことが起きているのだと思います。



起きることは刻々と変わっていくのに、何一つ変わらない自己の本質に寛ぐ時間。


実際には何も起きていなことを知る時間。


生まれることも、老いることも、病むことも、死ぬこともなく、得るものも失うものもなく、ずっと完璧なままあり続けている、時間を超えた存在。


それが本当の自分。




僕は一日瞑想会が好きで、朝から準備体操なんぞやっています(笑)


ようこそ静寂の世界へ。





いつもありがとう。

よければクリックしてください。

  


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ふと思ったので書いておきます。 本当の自分を見えなくしているのは、思考の層だという話を聞いたことがあるでしょう。 多くのメッセンジャーが言うことですが、事実そのものです。 ただしこの言葉に縛られてしまうと、瞑想中におかしな頑張りをする人が出てきます。 ... 続きを読む
ふと思ったので書いておきます。


本当の自分を見えなくしているのは、思考の層だという話を聞いたことがあるでしょう。

多くのメッセンジャーが言うことですが、事実そのものです。


ただしこの言葉に縛られてしまうと、瞑想中におかしな頑張りをする人が出てきます。

本当の自分を感じたくて、思考を止めようとするのです。


しかし思考は止まりません。

自分が考えているなら自力で何とかなりますが、自然に湧いてくるものを止めることはできません。


そもそも、止めようとしている自分そのものが思考の産物です。

すべてはただ起きている。

それらを認識しているのが本当の自分と言ってもいいでしょう。






認識しているということは、見ている自分と見られている自分の2元に分かれているという発想が出てきますが、それは勘違い。

認識しているのは自分ではなく、認識自体が認識しているのですから。


ここが分かりにくいところですね。

観照とは、観照者が観照しているのではなく、我々の存在の本質なのです。

観照とは行為ではなく、存在のありようと言ってもいいでしょう。



もちろん自我が自我を見張っているケースもあります。

それは観照ではありません。


違いは何かと言えば、自我が自我を見張る場合は様々な判断が下され、これはいいとか悪いとかのチェックになりますが、観照はただそれらを認識しているだけです。




ふと思ったことを書いてみました。






いつもありがとう(^^)

  

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いま東京に向かう機内です。 この数日間の記事を読み直してみましたが、ちょっとまとめてみましょう。 「私」はなぜいつも自分を守ろうとして懸命なのでしょう。 それは、「私」というものが、予見不能の世界の中に放り出された孤児のようなもので、傷つきやすく壊れやす ... 続きを読む
いま東京に向かう機内です。

この数日間の記事を読み直してみましたが、ちょっとまとめてみましょう。


「私」はなぜいつも自分を守ろうとして懸命なのでしょう。

それは、「私」というものが、予見不能の世界の中に放り出された孤児のようなもので、傷つきやすく壊れやすいこの身体の中に住んでいると感じているからです。


「私」は、無事に生き残るために、できるだけ周囲に気を配り、間違いや失敗を避けながら、成功してひとかどの人物になるために、いつも切磋琢磨している個別の魂だと信じています。

これらはすべて、思考が後付けで作り出したストーリーなのですが、社会のみんなが同じ錯覚を生きているので疑うことがありません。


分離意識(実際には分離していない)は、いつも何かが足りないという感覚を生み出します。

したがっていつも「これじゃない」わけです。


そんな我々は、いつの日か、いまよりもっと満たされた状況が訪れ、より完全な自分で生きられる日が来ると考えています。


いつの日か


もっと大きな家に暮らせたら


再就職先が決まったら


借金を完済したら


いい仕事にありつけたら


理想の相手と相思相愛になれたら


家族を持てたら


離婚して自由になれたら


体力が付いたら


一生遊んで暮らせるお金が手に入ったら


その時こそ・・・・



その時こそ何なのでしょう。


一つ確かなのは、その時も

「これじゃない」

と言っているということ。

だって「私」は分離したままなので、まだ何かが足りないのです。



大切なのは、このカラクリを見抜くこと。

これらがすべて思考の産物だと見透すこと。

すっかり信じてきた思考のストーリーから目覚めることです。


するとそこに、見かけ上の不完全さを超えた完全なるいまがあります。

一度も失ったことがない「いまここ」が現れるのです。

これが救済であり解放です。


こんな言い方をすると、また

「いつか解放されたら、その暁には・・・」

なんて思考がやってきます。


やれやれ(^^;)


でもこのような情報に触れたり、瞑想を習慣化することは、ことの本質を見抜くのに役立つことがあります。


まずは立ち止まって、深呼吸でもしてみましょう。


お疲れ様。

よく頑張ってるよね。



富士山が見えてきました。

もうすぐ着陸です。



(いまの富士山)




今日も読んでくれてありがとう。

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