かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2017年08月

昨日は輪廻転生という記事を書きましたが、人の記憶というのは曖昧なもので、このようなテーマは、このブログではほとんど扱ってこなかったと思いながら、輪廻転生という単語でブログ内検索をしてみたら、出てくる出てくる(笑) 昨日書いた、「宇宙は一つだが、人の数だけ ... 続きを読む
昨日は輪廻転生という記事を書きましたが、人の記憶というのは曖昧なもので、このようなテーマは、このブログではほとんど扱ってこなかったと思いながら、輪廻転生という単語でブログ内検索をしてみたら、出てくる出てくる(笑)


昨日書いた、「宇宙は一つだが、人の数だけある」という発想も、すでに6年前に書かせてもらっていたんですね。

この視点は先日の講演中に初めて自分の中に湧いたインスピレーションだと思っていたので、これも意外でした。


この過去記事にもそのことが分かりやすく書かれているので、時間があったら読んでみてください。

輪廻転生



それじゃ、今日は何を書こうかな。

同じことの繰り返しじゃつまらないし・・・


今日はいままでごく一部の人にしか言ってこなかった、僕の前世(?)について書いてみることにします。

たわいもないストーリーですが、真面目に書いてみます。

もしかしたら、あなたにも思い当たることがあるかもしれないから。



前世の記憶といっても、具体的なエピソードを思い出したわけではありません。

ただ幼少のころから、生まれ落ちた環境に大きな違和感を持っていて、自分はここに生まれてくるはずではなかったのに、なぜこの人生を選んだのだろうかという、子供らしからぬ疑問を持っていました。

人は新しい学びを得るために、自分の人生の条件を選んで生まれてくるという話をする人がいますが、確かにそんな感じがしていました。


これも子供の頃からなのですが、僕の場合は、この世に生きる人たちの苦しみや悲しみを理解し、どの魂も特別なものではなく、みな等しく同じものだということを、身をもって知るために生まれてきたのではないかと感じていました。

そしてなぜか、前世での自分のイメージも持っていて、それは誰にも話せない自分だけの秘密でした。

そのイメージの人は、立場上なのか高慢なところがあり、自分は特別だという思いが強くあったのです。


そんな特別さという心の歪みは、僕の半生で事あるごとに顔を出すのですが、そのたびに、またやっているという思いがしたものです。



それがあるとき、30歳の時でしたが、発売されて間もない一冊の本に出合います。

その本に出てくる、作者の父親の肖像写真を見た時、

「この人だ」

と確信めいた気持ちが湧きました。


目元も、全体的な雰囲気も僕によく似ています。

それもそのはず、その人は僕の血統上の祖父でもあるのですから。


事情があってこれ以上詳しくは書けませんが、その写真を見た瞬間に長年持ち運んできた思いがひとつの円として完了しました。

そしてその数か月後に目覚め体験が起き、すべての魂は同じものから生じていて、上も下もなく、貴賤もなく、すべての人は尊く偉大な存在だという理解が生じ、それまでの半生が終わったのです。


このストーリーが単なる思い込みなのか、それともそうでないのかは分かりません。

すくなくとも僕の宇宙の中では事実として起きたことであり、実はいまも僕はその人の生まれ変わりだと思っている面があります。


e944eea6

この世での最も大切な気づきは、全体から分離した自己は存在していないということ。

私たちは「ひとつなるもの」の現れなのです。


ところが同時にそこには、各々に備わった何らかの個性もあり、それは生死を超えてあり続けている。

その各々は、それぞれに宇宙を携えていて、宇宙は一つであるのと同時に、無数の様相を示しているのではないか。

そして人は死後、それぞれの宇宙に帰り(実際はひとつのもの)、また現象界に新たな冒険として出てくるのではないかと思うのです。


これがいまの僕が感じる輪廻転生です。


・・・・・・・・


【お知らせ】

「あの世に聞いたこの世の仕組み」の雲 黒斎と

「いまここ」の阿部敏郎による

『阿雲の呼吸』

各地トークライブの詳細はコチラから。


さとうみつろう君と毎年開催している、秋分の日スペシャル。

彼のブログに詳しく紹介されています。

「笑えるスピリチュアル」


このエントリーをはてなブックマークに追加

昨日のコメント欄に、いつも以上の感想が寄せられたということは、みなさんに講演を楽しんでもらえたということですね。 講演をするたびに思うことがあります。 それは、中で何が語られたか以上に、同じ時空間を共有することで発生するエネルギーが、その講演の価値になる ... 続きを読む
昨日のコメント欄に、いつも以上の感想が寄せられたということは、みなさんに講演を楽しんでもらえたということですね。


講演をするたびに思うことがあります。

それは、中で何が語られたか以上に、同じ時空間を共有することで発生するエネルギーが、その講演の価値になるのではないかということです。

これは壇上の人間と、参加者との共同作業で作り出していくものであり、微力ながらそれをリードするのが自分の役目だと思っています。


コラボ講演が楽しいのは、そこに登場するゲストによって、全く違う香りが漂ってくること。

そしてその人その人の真実に触れることができることです。


真実は一つであると同時に、人の数だけあるというのが僕の見解です。


昨日の対談中に感じたのは、たとえば霊魂であるとか、輪廻転生であるとか、僕の宇宙観には決して登場しないことも、矢作さんの宇宙の中では歴然とした事実だということ。

そのどちらが真実かということに、つい我々は頑なになりがちですが、宇宙が人の数だけあるという観点に立てば、そのどちらもが真実なわけです。


話を分かりやすくさせるためにも、一つの立場からだけ記事を書いてきましたが、宇宙は一つであると同時に、各自に内在し、それぞれに違う様相を表しているというのが、昨日得たインスピレーションです。

したがって宇宙(全体・神)の実相は、人間界のロジックで説明できるようなものではなく、前回も書いたように、人間から見れば相矛盾することが同時に現れている、まことに摩訶不思議なものだということです。



マインドは、右か左かどちらかだと主張します。

分離した個は存在するかしないかのどちらかだというわけです。

真実はその両方だというのは、マインドには受け入れられません。


すべての人は、同じひとつの源の現れであり、我々は究極的にひとつ(ワンネス)だということは、内なる経験として疑いようがなく、揺らぐことはありません。

そのような意味においては、僕はあなたであり、あなたは僕そのものです。


しかし同時に、僕はあなたではありません。

僕は僕であり、あなたはあなたです。


それぞれが同じ宇宙を共有しながら、にもかかわらずその個性によって現れ方も感じ方も違う。

その個性が転生を繰り返しながら、一つの宇宙をより深く豊かなものにしているのかもしれません。


lgi01a201405301100

その一方で、いつも「いまここ」しか存在せず、「いまここ」の静寂においては何一つ起きていない。

この真実の中で、深い休息と安らぎを得ることができています。


僕の人生の一部は、この安らぎの中にあります。

瞑想と禅との出会いは、人生が与えてくれた最高のプレゼントでした。


「いまここ」において、すでに誰もがゴールにたどり着いている。

すでに誰もが完璧である。

しかしその完璧さは留まることなく、あらたな冒険を続けている。



そうやって生命は永遠に展開し続けているのでしょう。


永遠の戯れ



いまここ



リーラ



かんながら
このエントリーをはてなブックマークに追加

今日は矢作直樹さんとの対談です。 矢作さんは、その著書の中で、霊媒や交霊についても触れています。 唯物論の医学界にあって、大変勇気がいたことと思います。 ワンネスの観点から見れば個人は存在せず、したがって個別霊も存在しませんが、その一方で何が起きてもお ... 続きを読む
今日は矢作直樹さんとの対談です。


矢作さんは、その著書の中で、霊媒や交霊についても触れています。

唯物論の医学界にあって、大変勇気がいたことと思います。


ワンネスの観点から見れば個人は存在せず、したがって個別霊も存在しませんが、その一方で何が起きてもおかしくはなく、何事もこうだと決めつけられません。


個と全体の関係も、とてつもなく深いものがあり、相矛盾することが同時に起きていて、まことに摩訶不思議。


人間ごときが理解することは絶対にできないもの。

したがって死後に関することはいまも謎であり、これからも永遠に謎のまま残り続けることでしょう。


P1380685

「私は何も知らない」

結局は誰一人、何も知らないのです。

真実の次元に触れた時、そこにすべての答えがあり(もっと正確に言うとすべての疑問が消える)、これは語りようがない、知りようがないということを知ることでしょう。

人はひとたび特定の答えを得ると、その結論に固執しますが、幼子のようになんの結論も先入観も持たずにいることが、新鮮な驚きに繋がっていくのだと思います。


「私は何も知らない」

ソクラテスが残したと言われるこの言葉は、彼自信が謙遜したわけではなく、有識者を皮肉ったわけでもなく、単なる事実の表明だったのです。


その上で、最終的に行きつくのは、おかげさまの心。

医学を極めた矢作さんも、この心境を語っています。


科学万能主義ともいえる現代で、科学者たちはその観察対象の法則を次々と見つけ出しましたが、「なぜ」そうなっているのかということについては、何一つ答えることが出来ません。

やはり人間は何も知らないのです。

そして、それでいいのだと思います。


何でも知れるという思いこそが人間のうぬぼれではないでしょうか。


今日の対談が楽しみ。
このエントリーをはてなブックマークに追加

今日の話は解りづらいかもしれません。 李 信さんからの質問 >阿部さん 教えてください。 >思いもしなかった本当の自分の在りようがあって・・・って  >その経験がなければ、根本は つたわらないのでしょうか? 「思いもしなかった本当の自分」は、想像することが ... 続きを読む
今日の話は解りづらいかもしれません。

李 信さんからの質問

>阿部さん 教えてください。

>思いもしなかった本当の自分の在りようがあって・・・って 

>その経験がなければ、根本は つたわらないのでしょうか?



「思いもしなかった本当の自分」は、想像することができません。

人は既知なるものの組み合わせでしか、ものを考えられないからです。

それはまったく違う何かであり、まさに「思いもしなかったもの」


それなのに何故このような話が伝わるかと言えば、まったく見失っているとしても、同時にそれが我々の存在基盤であることに違いないからです。

知りすぎるほど知っているのに、完全に見失ってしまったもの。

それが「思いもしなかった本当の自分」です。

あなたのコメントを読んでいると、これらのことはすでに理解されていると思いますが、あえて書かせてもらいました。



この機会に少し整理しておきたいことがあります。

それは非二元の世界と、宇宙的自己と呼ばれるものが指し示しているものは、必ずしも同じではないということ。

言葉遊びではありませんが、このことについて解説しているものに出合ったことがないので、僕なりに整理してみます。


非二元とは、主体としての自己が消え、全てはいま、ただあるがままにあるという、まことにシンプルな報告です。

自分の内側だと思っていた感覚も、思考も、感情も、外側にあると思っていた物も出来事も、単にいま起きている現象であり、それらはすべて「全体」の表現だというものです。

このとき自分とは、全体から切り離された単独のものではなく、全体そのものになります。


一方で宇宙的自己とは、まったく違う次元の経験であり、言葉で表すことは不可能です。

全体が本当の自分だという点では一致していますが、宇宙的自己とは、とてつもない知性と、ダイナミックなエネルギー、限りない愛と祝福と感謝、そして人間が望んでいるありとあらゆる喜びを無限大にしたような歓びの次元です。

これは確かに存在します。

僕がこの数年間、この次元のことに触れてこなかったのは、いたずらに渇望させてしまわないようにするためです。


今日はそのうえで、お話しさせてください。

この次元は、あえて言えば眩いばかりの白い光の世界。

あらゆる過去も未来もすべてこの中に在り、時間と空間を完全に超えています。

これこそが神であり、神とは客観的な存在ではなく、「神の体験」のことであり、徹底した主観的存在だとわかります。


ここでは体験という言葉を使わざるを得ませんが、これについては慎重になる必要があります。

なぜなら報告される体験は、すべて記憶にすぎず、そもそもそれを体験したのは誰なのかという問題が残るからです。

非二元から見れば、このようなことも単なる思考の現れということになります。


だからと言って、いま述べたような次元が存在しないわけではありません。

なぜ言い切れるかと言えば、この次元には、いま生きているこのリアリティが夢に思えるほどのリアリティがあるからです。

しかし、どこまでいっても主観的な報告に過ぎず、客観的な証明ができないことが、この手の話の限界です。


そして同時に言えるのは、全ての人が存在の最奥でこの次元を共有しているということ。

万物の源であるということ。


インドには7層の身体という考え方があり、その中の涅槃体と宇宙体はあらゆる人間に共有されているとされています。

また一時流行った、五次元とか六次元とかいう表現が、このような説明に有効なのかもしれません。

いずれにせよ我々は、多次元生命体として同時存在しているということは言い切れます。


その中の最も荒い波動である物質次元(三次元)を生きていれば、多くの摩擦に曝され続けるわけで、その結果、魂が磨かれていくという考えはありだと思うようになりました。


個と宇宙的自己との関係を、もっと深く探っていけたらと思っています。


img-kouza-cat1-2



・・・・・・・・・


【お知らせ】

阿雲の呼吸の、大阪、名古屋のお申込み受付が始まりました。

博多もお申し込みを開始しています。


大阪10月7日

名古屋10月8日

博多は9月16日です。


詳細はコチラから
このエントリーをはてなブックマークに追加

すでに究極の真実は明らかで、つたない文章とはいえこのブログでも再三にわたって披露してきました。 人が何を得たとしても、結局のところ自分が全体(宇宙)から切り離された孤児だという感覚がある以上、どこまでいっても何か足りず、お金やSEXや地位やら名誉やら、心 ... 続きを読む
すでに究極の真実は明らかで、つたない文章とはいえこのブログでも再三にわたって披露してきました。

人が何を得たとしても、結局のところ自分が全体(宇宙)から切り離された孤児だという感覚がある以上、どこまでいっても何か足りず、お金やSEXや地位やら名誉やら、心の虚無感を満たすために、それらを追い続けることになります。


手に入ったら入ったで、もっと欲しくなるのが欲望の宿命。

むしろ虚しさは拡大するばかり。


外側から見て豊かに見える人は、内側の空虚さをコントラストのように強く感じます。

これは誰か特定の人のことを言っているのではなく、誰しもに起きていることですが、そんなことは社会に公言できません。

せめて成功者としてのイメージを守ることで、やっと生きていられるのですから。

誰も本当のことを言わないから、あの人のようになれたら幸せになるという誤解を与えていますが、実際にはどこまでいっても同じことなのです。


一方で、お金が欲しくても手に入らない、SEXしたくても相手がいないというように、内側の虚無感だけでなく、外側にも欠乏があれば、人生は生きる価値のないただの憂鬱な繰り返しになってしまいます。

成功者がより大きな成功を求めるように、少しでも得たいという渇望はどちらも似たようなものです。


人の幸せは、唯一の真実である「いまここ」に寛ぐことしかありません。

でもここに問題があります。

「いまここ」という言葉は分かるけれど、この言葉が何を指しているかが解っていないのです。

これは思考で理解できることではなく、存在全体としての意識に変容するほかありません。

しかも自力では達成できないし、誰かのパワーによってできることでもない。


それでも真実の情報に出会うことで、人生の目的が根本的に変わり、求道心が芽生える人もいます。

足りないものを外側に追いかける不毛な繰り返しにピリオドを打つ人達です。


自分が信じてきた人生以外に、思いもしなかった本当の自分の在りようがあって、そこにこそ求めていた全てがあるということが、お伝えしたいことの基本です。


2

さて、このようなメッセージに触れると、いままで求めてきたものを捨て去って新しい道を歩もうという人もいます。

それが本当にしたいことならそれでいいのですが、真実に到達したからといって霞を食べて生きるわけではなく、性欲が消えるわけでもなく、生身の人間としてのあたりまえな欲求は残ります。


目覚めた暁には、それらの欲求が無くなるというのはファンタジーであり、そんなことと真実とはなんの関係もありません。


人のマインドは極端から極端に動こうとするので、ついいままで求めていたものを全否定したくなりますが、それらを克服しようとするのは的外れです。


とはいえ、社会や人生を超えるために、それらの情報と欲求を一切断ち切って修行に励むというのもありなので、ここは一概に言い切れませんが、現代人には馴染まないアプローチだと思っています。



これからも欲しいものは手に入れていけばいい。

皮肉なもので、真実への理解が深まり、がむしゃらに欲しいものを追いかけていた時より、「いまここ」に寛ぎながらやりたいことをやり始めたほうが流れがスムーズになり、いつのまにか外側のニーズは満たされていたりします。


その根底に芽生えているのが、あえて言葉でいえば「愛と感謝」としか呼べないエネルギーです。

愛と感謝こそが幸せの要素なので、欲しいものが手に入ればそれでよし、手に入らなければそれでよしとなり、それが寛ぎに繋がっていくのでしょう。

これが現象界を生きる極意ではないかと思っています。



今日も思うままに書きましたが、こいつはおかしいと思う人はスルーしてくださいね。

阿部という小さな人生を通して発見したことしか伝えられませんが、これからも書きたいことを書き、やりたいことをやっていこうと思います。

傲慢ながら、きっと誰かの役に立つはずだという思いもあります。



最後まで読んでくれてありがとう。
このエントリーをはてなブックマークに追加

1964年は東京オリンピックが開催された年。 昔はよかったという人もいるけれど、そこはたいして変わらないと思う。 みんなより良い明日を求めて生きていたのは、いまと同じだ。 あのころすでに究極のメッセージソングが巷で流行っていた。 ある歌が当時小学生だっ ... 続きを読む
1964年は東京オリンピックが開催された年。

昔はよかったという人もいるけれど、そこはたいして変わらないと思う。

みんなより良い明日を求めて生きていたのは、いまと同じだ。


あのころすでに究極のメッセージソングが巷で流行っていた。


ある歌が当時小学生だった僕の心を深く打った。

さっきyoutubeで探して聴いてみたら、やっぱりすごい歌だった。

当時の天才たちの作品だ。


音楽をやっていると、評論家たちが、「これは新しい」とか「これは古い」とか言うけれど、そんなことはなんの評論にもならない。


新しくたって、いいものはいいし、駄作は駄作。

古くたって、いいもいはいいし、駄作は駄作。


だからいいものは、時代を超えていいものだ。


今日はあなたと、この歌をわかちあいたい。



銭のないやつぁ 俺んとこに来い

俺もないけど心配すんな

見ろよ 青い空 白い雲

そ~のうちなんとか な~るだ~ろ~う~!!!



3A287858-BBA1-11E1-B96B-DC4EFFDA975F_o

人生を振り返ってみるとその通りだった。

今度こそ、どうにもならないと思ったことが何度あったことか。


それがどうだ、いまもこうして何とか生きている。


だから僕は言葉で伝え続けるんだ。


大丈夫!

なんとかなる!


たった2分の曲だから聴いてごらん。

黙って俺について来い



今日も軽く生き切ろうね(^^)


・・・・・・・・・・・・


【これからのお知らせ】


8月27日
矢作直樹&阿部敏郎 東京コラボ講演会

9月16日
雲黒斎&阿部敏郎 「降参のススメ」 博多コラボ講演会

9月23日
秋分の日特別イベント 「宇宙との統合ワークショップ」

このエントリーをはてなブックマークに追加

やっぱりこの人生映画は楽しいだけじゃない。 どんな幸せそうに見える人の人生も、よくよく調べてみれば苦難の嵐だったりする。 もしかしたら人は苦しむために生まれてくるのかもしれない。 そう考えると、なぜ苦しむために生まれてくるのかと問いたくなる。 これが喜 ... 続きを読む
やっぱりこの人生映画は楽しいだけじゃない。

どんな幸せそうに見える人の人生も、よくよく調べてみれば苦難の嵐だったりする。


もしかしたら人は苦しむために生まれてくるのかもしれない。


そう考えると、なぜ苦しむために生まれてくるのかと問いたくなる。


これが喜びと幸せの比率のほうがずっと多ければ、いちいち何故なんて思わない。

喜びはそれ自体で完結しているからね。


ところが苦しみはそうはいかない。

苦しみには意味が必要だ。


そこで一番納得できそうな意味は、人は苦しむことで魂が磨かれ、そうやって徐々に魂の質が高まっていくというもの。

これだったら我慢の支えにできそうだ。


しかも次に生まれ変わったとき、魂が高まった分だけ幸せな条件のもとに生まれ変われるという。


これは少し説得力に欠ける。

傍から見てどんなに条件がよかろうが、最初に書いたようにどんな人の人生も苦難に満ちているからだ。

最高の上流階級だとしてもね。


そうなると最後の手段はこれになる。

魂が最高レベルまで高まれば、輪廻の繰り返しから解脱して、もう二度と苦痛に満ちたこの世に生まれ変わることがなくなるというもの。


ところがこの考え方にも「?」が残ってしまう。

だったら最初から生まれてこなければいいじゃんって。


そこでまた答えが用意される。

魂が高まるためには、この苦しみの世界(二元の世界)に生まれるしかなく、すべては自らが高まるためのシステムなのだと。



僕はこのような話を茶化しているわけじゃない。

この世には、いま実際に苦しみの中にいる人と、苦しみの種を持ち運んでいる人の二種類しかいないので、本気で答えを探りたいだけだ。


すると心の奥から声がする。


森羅万象に内在する意味などありません

すべては全体(神)の戯れ

戯れとは目的を持たないことを言うのです

目的があれば、すべてはそこに向かうための道程になりますが、存在には目的などありません


だからいま

楽しみなさい

祝いなさい

そうすれば、「何故?」という問いかけそのものが消え失せます




やはり、阿部という現象はこの声に動かされているようだ。


だけどさ、全体さんよ。

いままさに苦しんでいる人に、アンタのそのメッセージは届かないよ。


苦しんでいる人に、「その苦しみには意味がない」と言ったところで、なんの解決にもなりゃしない。



こう言いながらも阿部は、全体の言うことが真理だと感じている。

そしてこの声を理解した時、初めて問題の根本が解決されることも知っている。

しかしそれには、細胞の一つひとつで納得するくらいの体感が必要だ。


方便でもいいから、苦しみに耐えられるようなメッセージを発していくのがいいのか。


それとも、すぐには役にたたずとも、究極のメッセージを発していくのがいいのか。







まっ、お茶でもどうだい?
(彼方からの声)





1799478
このエントリーをはてなブックマークに追加