かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

2017年10月

母の旧姓は阿部さんからの質問 質問です。 阿部さんは死を経験したことがありませんよね? なのに何故、死んでも″それ″はあり続けると断言出来るのですか? とてもいい質問ですね。 あなたの他にも同様の疑問を持っている人もいるかと思います。 でもこういうことっ ... 続きを読む
母の旧姓は阿部さんからの質問

質問です。
阿部さんは死を経験したことがありませんよね?
なのに何故、死んでも″それ″はあり続けると断言出来るのですか?


とてもいい質問ですね。

あなたの他にも同様の疑問を持っている人もいるかと思います。

でもこういうことってなぜか聞きにくいですよね。


僕がここに書いてきたことは知識ではありません。

自らの経験に基づいて書いています。

あなたが言うようにこの肉体が

「ご臨終です」

と言われたことはないのですが、

「あー、死ぬとはこういうことか」

という体験はあります。

ここが表現の難しさですが、その時それを体験している自分は消えていて、その次元の認識だけが存在しています。


その次元の存在は、生まれることも死ぬこともなく、永遠のいまの中に在り続けています。

しかもこともあろうに、その存在こそが本当の自分であることを、疑う余地なく確信するのです。

さらには、あらゆる生命体がその存在によって生かされていることも分かります。

当然、あなたもね。


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最初にその次元があらわになった時は、あまりの衝撃と、肉体を超えたエクスタシーで、特別な体験をしたような気がします。

しかしやがて、その次元が当たり前に定着しだすと、それを内側に携えながら、この夢の人生を生きることになります。


だからと言って完璧な人格になるわけでも、高い徳が身についているわけでもありません。

人格も徳も、人間が描く価値観であって、実際にはあるがままに、善から悪まで、あらゆる可能性を持った生身の人間として在り続けます。

これは誰もが同じです。

そもそも特別な人などいないのです。

自分を特別に見せたい人は多いですけどね。


さてこのよう話は、僕にとっては揺るぎない真実ですが、それを聞く者にとっては情報の一つであり仮説に過ぎません。

科学の発見であれば客観性があるので、一人が発見すればただちに世界中で共有できますが、内的な発見はどこまでいっても主観的、個的なものです。

ですから一人一人が内なる本当の自分を発見していくしかないのです。



このような文章を書くと、言葉尻を捕まえてあれこれ言いたがる人がいますが、そういうリアクションを想像して書くと、筆が進まなくなることがあります。

今日は一気に書かせてもらいました(^_^)


・・・・・・・・


【お知らせ】

禅サンガのお申し込みは今日までです。
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今日も年齢ネタで恐縮です。 僕が昔から不思議に思っていることがあって、もしわかる人がいたら教えてください。 たとえばプロ野球の選手たち。 昔はみんなオジさんに見えたのに、最近は子供のように見える。 そりゃそうだろ、お前が歳とったんだから当然だと思うかも ... 続きを読む
今日も年齢ネタで恐縮です。

僕が昔から不思議に思っていることがあって、もしわかる人がいたら教えてください。


たとえばプロ野球の選手たち。

昔はみんなオジさんに見えたのに、最近は子供のように見える。


そりゃそうだろ、お前が歳とったんだから当然だと思うかもしれないけれど、自分の内側は変わっていないし、いつも鏡を見ているわけでもなく、自分の容姿だってイメージ上は若いまま。

それなのに、やたらとみんなが子供に見える。

昔の映画に出演している老俳優が、いま同じ映画を見てみるとけっこう若く見えたりして。


無意識に自分の年齢を自覚していると言うかもしれないけれど、僕自身はそういう気はしない。

何が変わっていくんだろう。

脳の情報処理機能かな。


たぶん、鏡も映像もなく、自分の顔を見る機会がゼロだったとしても、年齢と共に周囲が若く見えだすのだろう。



なぜだろう。



そんなこと考えたことありますか?

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昨夜は、昔の歌を聞いてもらうためのささやかな音楽会を東京の自宅で開きました。 なんせ25人でいっぱいの会場。 40年近く前の歌を唄いながら、時の流れの不思議を感じました。 昔取った杵柄とは言え、ギターの指が勝手に動いていく。 歌っている者は昔と何も変わら ... 続きを読む
昨夜は、昔の歌を聞いてもらうためのささやかな音楽会を東京の自宅で開きました。

なんせ25人でいっぱいの会場。

40年近く前の歌を唄いながら、時の流れの不思議を感じました。

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昔取った杵柄とは言え、ギターの指が勝手に動いていく。

歌っている者は昔と何も変わらない。

違いがあるとすれば、頭の中の記憶が増えていることくらい。


このような経験の中で、自分が時間を超えて存在していること、自分の内側は歳を取っていないことを実感します。

この内的感覚は、幼少のころから持ち合わせていて、いまも変わらず内側にあって、この先何十年が経とうと、このまま変わらないのは明らかです。

実は赤ん坊の頃も、さらには胎内にいたころもこの感覚を持ち合わせていました。

もっと言えば、生まれる前から「これ」はあり続けています。

もちろん死んでからも、何一つ変わらず在り続けます。


それが本当の自分。


だから、「本当の自分は生まれもせず死にもしない」と言うのです。


名前や、生活態度や、社会的立場がどう変わろうと、何も変わらず自分として在り続けているもの。

その存在は外側の出来事や、内側の感覚に影響されることはありません。


しかもそれこそが本当の自分。

このことが分かれば、何があっても救われていることが分かりますよね。


だから昨日と同じことを言いますが、


心のままに思い切り生きて下さい。



・・・・・・・


【お知らせ】


禅サンガオープンキャンパスの公開は残り2日間。

お申し込みは明日までです。


今日は東京で雲黒斎君との阿雲の呼吸。

都合がつく方はいらして下さい。
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今日は誕生日だから人生を振り返ってみようか。 若いころは、働き詰めの母を楽にしてあげようと頑張った。 当時はなぜ自分はハンデを持たされているのかと思ったけれど、そのおかげで頑張れて、ささやかな成功も手にすることが出来た。 人生は何が幸いするか分からないと ... 続きを読む
今日は誕生日だから人生を振り返ってみようか。


若いころは、働き詰めの母を楽にしてあげようと頑張った。

当時はなぜ自分はハンデを持たされているのかと思ったけれど、そのおかげで頑張れて、ささやかな成功も手にすることが出来た。

人生は何が幸いするか分からないと思った。


そのうち、あんなに憧れて入った業界が急に色褪せて見え始め、虚無感に襲われた。

そんなある日、突然訪れた気づき。

「自分という主体」は思い込みだったと知った。

ことは自分がやっていたのではなく、「全体の力で、ただ起きていた」


流れに完全に任せてみようと思い立ったころ、天河神社を訪れた。

このまましばらく滞在したいと思っていたら、宮司がやってきて「しばらくここで手伝ってくれんか」と言ってくれた。

その日から今日まで生かされてきたのは、その底流に天河が流れていたからだと感じている。

理にあわない選択も、直感に従って行動してきた。

その勇気の背景にあったのは、神への信頼だったように思う。

振り返ってみれば出来過ぎの人生だった。


来月の特別神事は、熟慮して計画したわけではなく、ずっと大好きだった天河禊殿にまつわる不思議な話を聞いてから、あれよあれよで成っていった話。

こういうときこそ、その背後に大きな意味が隠されているというのは、長く生きてきた直感のようなもの。

ここからまた何かが動き出すような気がしている。


以上!



みじかっ。

60余年の人生も、言葉にすればこの程度のものだ。



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もしいま、人生のすべてをかけたメッセージをあなたに贈るとすると、



「心配するな なんとかなる!」



人は無難や安心を優先してしまいがちだけれど、そうやって長く生きながらえることが人生の成功だとは思わない。

そのようにして死を待つよりも、一瞬のきらめきのほうが生の深みを知ることができる。


生きるというのは危険を背負ってこそだということが分かるだろうか。



だから心のままに生きてごらん。


「心配するな なんとかなる!」


2017年10月27日

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このメッセージのジレンマは、目覚めへのどんな説明も、人は夢の中で受け取るということ。 しかも自分が夢を見ていることに気づいていない。 夢の中はおびただしい数の判断に満ち、信念があり、自分の意見もあります。 それらのすべてが夢であることを指摘しても、その指 ... 続きを読む
このメッセージのジレンマは、目覚めへのどんな説明も、人は夢の中で受け取るということ。

しかも自分が夢を見ていることに気づいていない。


夢の中はおびただしい数の判断に満ち、信念があり、自分の意見もあります。

それらのすべてが夢であることを指摘しても、その指摘は一つの情報として夢の中で処理されます。


夢は議論が大好きで、争いさえも引き起こします。


争いとは、人と人との争いではなく、夢と夢との争い。

それぞれが自分の夢から見ているので、争いはどちらの人も正しいのです。


いつもこのブログに、異論も反論も要らないと言っているのはそういう意味です。


もうひとつ知っておきたいのは、「少し目覚めている」という状態はないということ。

人は眠っているか起きているかのどちらかです。


繰り返しますが眠っているのが悪いわけではないですよ。

いまという無上の至福は忘れてしまいますが、だからといってあなたの本質が何か失っているわけではありません。

最初からどこにも行っていないので、道に迷っている人も、遠回りしている人も、失敗している人もいません。


だから根本的には大丈夫なのです。


その上で、もう夢にうんざりした人や、夢を夢と認識し始めた人に語りかけてきました。

なぜなら夢の人生にはこれでいいというゴールがなく、結局は同じ輪を回っているだけだから。


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さて、いくつか質問が来ていました。

>真我(私はある)と無我(私はない)が同時に真理だとしたら、矛盾を起さないように説明して頂けないでしょうか?


真我の「我」と、無我の「我」は、指しているものが違います。

無我の我は、通常我々が自分だと思っている自己を指しています。

それは夢の中の登場人物であり実際には存在していません。

したがって真実は「無我です」


真我の「我」は、存在そのもの。

これ以外には存在していない、唯一絶対の存在のことであり、あなたの本質です。

この真我であるところの本質は、夢の我が無い時に現れています。

ゆえに

真我=無我となります。



似たような話として、10年前にこのブログで、「延命十句観音経」の中の「常楽我浄」という一句を解説したとき、地上目線と宇宙目線、それぞれの「我」についても触れました。

常楽我浄3

常楽我浄7



もうひとつ質問が来ていましたが、質問の意味がわからなかったので問合せ中です。

コメント欄かこの記事上でお答えできたらと思います。


本当はなんの解説も要らず、質疑応答も要らず、ただ潔く目を覚ますだけ。

思考を取っ払って、いまあるがままの「これ」になるだけ。

にもかかわらず「これ」について思考したくなるのが夢の宿命です。



・・・・・・・・・・・


【お知らせ】

禅サンガ5期へのお申込みありがとうございました。

締め切りは10月30日です。

お申し込みはオープンキャンパスから。



阿雲の呼吸でも伝えたいことは一つです。

2人が最初に出した講演CDも、タイトルは「アラームクロック(目覚まし時計)」


年内は東京と博多で阿雲講演があります。

東京 10月29日

博多 12月2日


2人でやっているブログも面白いですよ。

降参のススメ
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人は夢を見るために生まれてきたのかもしれない。 夢と言っても希望のことではなくて、夜に見る夢でもなくて、こうして生きていること自体を夢と言っている。 何のことかピンとこない人もいるだろうけど、本当のリアリティはいつもいまここにあって、それはいいとか悪いと ... 続きを読む
人は夢を見るために生まれてきたのかもしれない。

夢と言っても希望のことではなくて、夜に見る夢でもなくて、こうして生きていること自体を夢と言っている。


何のことかピンとこない人もいるだろうけど、本当のリアリティはいつもいまここにあって、それはいいとか悪いとか解釈する以前にただあるがままにあるわけ。

ところが人はそのあるがままを解釈し、そこに記憶を投影したり、想像したり、いろんな思いを持って物語を作りだして生きているわけです。

その思いの物語を夢と呼んでいる。


『いまここはどこにも向かっていないのに、物語の中の自分は未来に向かって生きているつもりでいます』


この言葉が腑に落ちるには、徹底的に「いまここ」を体験するしかない。

その体験は「いまを生きる」というのとは違う。

そんなものはちっとも「いま」じゃない。

時間としてのいま、夢の中のいまに過ぎないから。


言っていることわかる?


わからなくても話を先に進めるね。


本当は何も起きていないんだけど、思いの中ではいろんなことが起きている。

上手くいっているとかいないとか、幸せだとか不幸だとか、いつかああなりたいとか、誰それは自分よりも上等だとか劣っているとか、とにかくいろんなことが渦巻いていて、その思いの世界を少しでも向上させようとするのが大方の人生なわけ。


その全部を夢と言うわけです。


少し分かった?

えっ?分からない?


それはね、この情報も夢の中で読んでいるから。

すでに多くの判断が持ち込まれている。



で、話を戻すと、人は夢を見るために生まれてきた。

夢が悪いって言っているんじゃないよ。

ただ、夢を見ているという事実を指摘しているだけ。


だから思いきり夢を見ればいい。


たとえ一生夢を見たとしても、あなたは夢の中の登場人物の自分じゃなくて、夢を見ている何らかの存在だから。

その存在は、見ている夢がどんなに残酷でも、苦しくても、まったく影響されていない。


このことは夜見ている夢と同じこと。

どんな酷い夢でも、目が覚めてみればあなたは何も傷ついてないでしょ。

それと同じ。

楽しい夢も、悲しい夢も、覚めてみれば大して違いはない。夢は単に夢なのだから。

だからどんな人生も、本当は大して違いはないわけ。

夢の中では、大層な違いを感じるけどね。




そんな夢の中に釈迦みたいなのが出てきて、目覚めについて語りだす。

なぜかと言うと、夢はその特性として、やがては悪夢になるようにできているから。

その悪夢の中で人はみんな苦しみを抱えて生きているから。


たしかに楽しいこともあるけれど、その背後にあるのは一連の欠乏感や欲求不満。

そうなってしまう理由は、夢を見ているのがマインドだからだ。

マインドは判断や否定というメカニズムでできているから、幸せになんてなるはずがない。


もしあなたの隣で悪夢にうなされている人がいたら、起こしてあげたくなるでしょ?

それがブッダたちがやってきたこと。

慈愛だとか、菩薩行だとか、そんな大したことじゃなくて、ただシンプルに起こしてあげたくなる。



もう一度言うけれど、夢を見たまま死んだとしても何か失うわけじゃないし、失敗したわけでもない。

ただ言えるのは、もし目覚めたとしたら、目覚めないほうが良かったとは決して思わないってこと。

リアリティは、喜びと安堵でできているから。


昨日からオープンキャンパスを公開して、禅サンガにおいでよと言っているのは、禅サンガはあなたの夢に向かって、それは夢だと言い続けている会だから。

夢にとっては何の得もないけれど、こんな話に何かを感じるとしたら、目覚めの準備ができてきているってこと。

怖くないよ。

夢のほうがよっぽど怖い。

僕はすごい会だと思う。


オープンキャンパスで公開している動画の中で、特に最初の動画はつい先日のWeb講演の模様だけど、あれも何度も見てもらいたいコンテンツの一つです。

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サンガへのお申し込みは30日まで。

早く申し込んでくれた人には感謝の気持ちでプレゼントがあります。

と、最後は宣伝になってしまったけれど、今日一番言いたかったことはこの部分(笑)


また時間を見つけてオープンキャンパスに来てください。

見るたびに違った理解が起こるかも。


オープンキャンパス



・・・・・・・・・・・・


【お知らせ】

話は変わって、こちらはナマの阿部とナマの雲黒斎に会う機会。

言いたいことは一つだけれど、相棒が変わるとまた味が変わってくるから面白い。


10月29日

阿雲の呼吸(東京)

詳細とお申し込みはコチラから


二人でやっているブログも面白いですよ。

降参のススメ

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多くの人が勘違いしていることの中に「修行」があります。 修業とは、いまよりもっと上等な自分になるためとか、悟るためとか、何かになるために行うことだと思っているのです。 これは人のマインド(自我)が時間の中に存在しているから起きる発想です。 しかし実際に ... 続きを読む
多くの人が勘違いしていることの中に「修行」があります。

修業とは、いまよりもっと上等な自分になるためとか、悟るためとか、何かになるために行うことだと思っているのです。


これは人のマインド(自我)が時間の中に存在しているから起きる発想です。


しかし実際には時間は存在せず、ただいつも「いま」だけが展開しています。

その「いま」を生きる態度を「修行」と呼ぶのです。


マインド(自我)の引力は強力で、うっかりするとすぐに頭の中の物語に吸いこまれてしまいます。

いつも頭の中を生きている人には、吸いこまれていることさえもピンときません。


思考が湧いたときに、それを思考だと見抜き、思考が作りだす物語に埋没することなく、いまここを生きることを「修行」と言うのです。

したがって幾多の禅師が言うように、修行そのものが悟りなのです。


そんな話を、つい一昨日に行った禅サンガのWeb講演の中でも向禅師と語り合っています。

その模様は禅サンガオープンキャンパスの冒頭に収録してあります。


そして4期の特別講師を務めてくれた、元Googleの人材開発責任者ピョートル・ジグバチさんとの対談。

このビデオはそのまま書籍にしてもいいようなとても貴重な内容となっています。

そして仏教学者の阿純章さんとの「般若心経談義」もノーカットで掲載しました。


これらの動画をオープンキャンパス開催中は一般公開していますので、この機会にご覧ください。


禅サンガはネット上で展開する魂の共同体ですが、会期中に数回、浜松の方広寺で実際の伝統禅に乗っ取った2泊3日の接心も行われます。(会員は参加費無料)

こちらの模様も10分程度のダイジェストビデオになっていて、実際の雰囲気を感じてもらえると思います。


向禅師とのコンビで始まった禅スクールは、発足して早20年になります。

禅と瞑想の普及は、不肖阿部のライフワークとしてこれからも続けていきます。

最終的に人の学びはここに集結すると確信するからです。


禅サンガオープンキャンパスはコチラからお入りになれます。



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弁財天は仏法を守る護法の神です。

白隠禅師が空海の言葉として、このことを紹介しています。

若き空海の修行場でもあった天河弁財天社に、禅サンガの発足をご報告してから早3年が過ぎようとしています。

その間、いくつかの試練もありましたが、またこうして無事に5期を迎えられたことを、11月のご神事の際に報告してきます。



本当の幸せのありかはここにあるよ。

苦しみの終焉はここににあるよ。

人生で発見した宝を、これからも分かち合っていくことを誓います。
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