超マニアックな皆さん、おはよう。


さっそく昨日の続きを始めるよ。




変わりゆくものに対して「変わらないで!」としがみつく「常」も、苦しみを遠ざけて安楽を引き寄せようとする「楽」も、元はといえば「我」への執着から来ている。


あらゆる執着や欲望の根っこにあるのが、この「我」という感覚だ。


これは単に感覚であって実体ではない。


そしてこれは時間という概念と密接関係にある。

時間も感覚であって実体ではない。


この二つは違う形をした同じ錯覚だ。




本当はいつも「いまここ」という時空間しか存在していないのに、僕らは時間が、過去から現在、現在から未来に向かって、直線的に続いているとイメージしている。

そこを「自分」という固定した存在が、連続して生きていると感じている。


でもそれは間違いだ。


時間もなければ、そのような自己も存在しない。




だから言うんだ。

過去生とか霊とかを口にする人は、時間という観念に生きている人たちで、言っていることは幼稚だって。


このブログを読んできた人の中には、自己が存在しないということを理解し始めた人もいるだろう。


僅かでもその感覚を実際に経験すれば、2度と同じ人ではいられない。


それまで「自分」だと信じてきた想像の産物は、たちどころに消えてなくなる。





自己など存在していない。

それを釈迦は「諸法無我」と説いた。




本当は無いにもかかわらず、有ると信じているから、そこに苦しみが生まれる。

それが3つ目の顛倒(てんどう)の「我」





たった一句を説明するのに、ずいぶんと時間がかかっているな。




もう少し頑張るからね。