平成元年、神社に関心がなかった僕が、背中を押されるようにして天河神社に向かった。

正直に話せば、その時はこの社会で生きるのがほとほと嫌になっていた。

内側に大きな変化が生じてから4年が過ぎていて、その4年間は社会の中で活動しながらもいまと同じメッセージをことあるごとに人に伝えていた。

どうやったら「このメッセージ」を多くの人に届けられるかにしか関心がなく、バブル経済の真っただ中ということもあり投資してくれる人はいくらでもいて、そのお金を湯水のように使ってメッセージバンドを作ったんだけど、商業的には大失敗。


お金なんて所詮は人間界のものという考えは、現実面において通用しうるはずもなく、その責任としわ寄せが一気に襲い掛かってきていた。

自分のお金も使い果たし、明日をも知れぬ毎日が続いていたが、不思議と落ち着いていられたのは、やはり内なる気づきが大きかったと思う。

天河を訪れたのはそんなころだった。


山の中なのに、まるで海の底みたいで、いままでに感じたことがない静かなる優しい「気」を感じた。


できるだけ長く滞在したいと思ったら、宮司がやってきて

「アンタはここに縁がある人だから、4か月後にある240年ぶりの大祭の準備を手伝ってくれないか」

と言ってくれた。


どんな縁なのかは知る由もなかったが、当時から伝説的人物だった柿坂神酒之祐宮司からそう言ってもらえて何となくうれしかった。

なぜ宮司がそう思ったのかはいまも知らない。

きっと理由などなく、ただその時そう思ったのだろう。


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ある日突然、内側に生じた変化によって、我々を生かしている命はひとつのものだと確信していた。

そのひとつなる命を各自が「私の命」だと信じているということもわかった。

その命は同時に意識体でもあって、したがって各自が「私の意識」だと思っているものは、実際には大いなる意識の現れということだ。


したがってこの肉体が死を迎えても、命は消滅せず、意識も消滅せず、そのような意味から我々に死は存在しない。

だってそれまでも「私の命」「私の意識」だと思っていたものが、そのまま残るのだから。

失くすものは何もない。


いつも繰り返し

「大丈夫だよ」

と言い続けるのはこのことからきている。


そんな「大いなる命」、「大いなる意識」のことを、人は神として崇めてきたのだろう。

これが、僕が感じている神の概念だ。


にもかかわらず神社に行けば、そこにおわすであろう神に祈りを捧げるのは何故だろう。

自分の源に手を合わせているという説明もできるけれど、それでもそこに何かがいるような気がするのも事実だ。


それが何なのかは分からないけれど、それはとてつもなく大きな愛であり、無条件に全ての人を受け入れてくれるそんなエネルギーに満ちている。

人間界の善悪や判断を超えて、ただ優しさで迎えてくれる場所が僕にとっての天河だ。


行くたびに何かがリセットされて、そこから新しい人生が流れだす。


実際にいままでにも、不思議な巡り合わせが何度もあった。

いまの人生は天河から始まったと言っても過言ではない。


4か月間の奉公が終わり天河を下りる時、神殿に向かって

「この身体と命を、お好きなようにお使いください」

と祈念してから28年が過ぎた。


最近になって、また行ってみたいという思いが強くなり、なぜか禊殿(みそぎでん)が気になっていたところ、今回の特別神事の運びとなった。

やっぱり呼ばれたんだと思う。


この数年間、天河詣でをした人達から、

「宮司さんが阿部さんによろしくと言っていました」

という言葉を何回聞いたことだろう。


当日はどんな人が集まってくれるのかは知らないけれど、見えない仕組みの中で起きているこの流れを大切にしたいと思う。



禊殿での特別神事は11月19日11時。

前日の18日の夜には、本殿にて特別神事が執り行われます。


それも含めて、明日には詳細のご案内と先行予約が開始できる予定です。



かんながら