かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

カテゴリ: キリストについて

キリストは、僕たちが神の子であることを教えてくれた。 それは釈迦も同じだ。 だがキリストの教えは、限りなく優しく愛に満ち、そして言葉使いが易しい。 その詩的な美しさは釈迦も敵わないほどだ。 なぜ二人は同じ事を言うのでも、これほどの違 ... 続きを読む



キリストは、僕たちが神の子であることを教えてくれた。


それは釈迦も同じだ。



だがキリストの教えは、限りなく優しく愛に満ち、そして言葉使いが易しい。

その詩的な美しさは釈迦も敵わないほどだ。


なぜ二人は同じ事を言うのでも、これほどの違いがあるのだろう。




時代背景や文化風土の違いもあっただろうが、最も大きい理由はこうだ。



彼らの言葉は、彼らが自分の弟子に語った内容を弟子達が思い出して記したものだ。

キリストに集まってきた使徒達は、漁師や農夫が中心で、教育を受けた者はほとんどいなかった。

教育を受けていたのは、キリストを売ったとされるユダと、疑り深いといわれたトマスくらいのものだろう。

無学ではあったが彼らは純朴で純粋な人たちだったようだ。




僕たちが何か自分の知識を人に話す時は、自分本位に話すのではなく、聞いている人にわかるように話をするだろう。


だからキリストの話にはたとえ話や易しい表現が多いのだ。

それは学問的な話になりようがない。




一方、釈迦に集まってきた弟子達は、当時のインドを代表する知識層、今でいう東京大学の学長クラスだった。

その人たちが相手であれば、緻密な理論を自由自在に操る事ができただろう。


さらに仏典の多くは、釈迦が直接話したものだけではなく、後世になって多くの突出した宗教家達が、次々とその理論を完成させていったものだ。

仏教が哲学的なのはそのためだ。




しかし、よくよくその両者を味わってみると、ひとつなる真実が浮き上がってくる。


それは言葉を超えた、経験的に理解すべき境地であり、まさに「いまここ」で我々を生かして止まない大いなる力への信頼だ。



それをキリストは「思し召すままに」と表現し、釈迦は「南無」と表現した。


キリスト教文化で育ち、インドで学んだビートルズは「Let it Be」と歌った。



僕たちは守られている。

何が起きても、僕たちが大いなるものとひとつである事実は変わらないのだから。



そのことを理解し感謝することが、僕たちに与えられた唯一の仕事だろう。







今夜はそれをするのに最もふさわしい夜だ。

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この聖なる夜に、静かで神聖な気持ちでいられることを感謝します。 もし今の時代にキリストが復活したら世界はどう変わるのだろう。 ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中に似たような話があって、その中では、もし今キリストが復活して「 ... 続きを読む



この聖なる夜に、静かで神聖な気持ちでいられることを感謝します。






もし今の時代にキリストが復活したら世界はどう変わるのだろう。


ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中に似たような話があって、その中では、もし今キリストが復活して「我こそは・・・」と宣言すれば、このイカサマ師と言って殺されるだろうとしている。



現代も同じで、彼を見分ける事はほとんど不可能だろう。



キリストが実際に生きていた時代はどうだったんだろう。
彼を外側から神の子と認識できたのだろうか。


もしそれができれば、誰も彼を殺さなかっただろう。

多くの人にとって、彼は救世主の名を語るペテン師にしか見えなかったのだ。


何故か。

彼の神性は、外見のそれではなく、内面における達成だからだ。


それは人の目には映らない。

人はその外面しか見る事が出来ないから。




彼は「私は神だ」「私は全てだ」という類のことを宣言したことで殺されたという。


今の僕には、彼の宣言が真実だった事が理解できる。



彼が「私」という時、それは自分というパーソナリティーを指しているのではない。


そのようなパーソナリティーはすでに存在していなかった。


仏教でいうところの「無我」



その時、彼の中で彼を生きていたのは「宇宙意識」「全体意識」だったのだから。


それはまさに、僕をあなたを生かしているのとまったく同じものだ。



その点において、僕たちとキリストも釈迦も何も変わらない。



ただ違いは、彼らは自己を超越し、その全体意識がそのまま機能していた点だ。




キリストは僕たちが本来何者なのかを教えてくれたのだ。


僕たちが神そのものであることを、僕たちが神の子であることを教えてくれたのだ。




聖なる夜に、自分の中のキリストに近づいて見よう。




合掌
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おはよう。 今日はクリスマスイブ。 明日はイエス・キリストが生まれた日だね。 彼の誕生は世界に大きなインパクトを与えた。 西暦はまさに彼の誕生に起点を置いているくらいだ。 今日は、聖なる人に思いを寄せて見よう。 彼はどんな人だったん ... 続きを読む


おはよう。
今日はクリスマスイブ。


明日はイエス・キリストが生まれた日だね。


彼の誕生は世界に大きなインパクトを与えた。
西暦はまさに彼の誕生に起点を置いているくらいだ。


今日は、聖なる人に思いを寄せて見よう。



彼はどんな人だったんだろう。


僕たちがキリストを心に描く時は、西洋画に描かれた彼の顔や姿が基になっている。
そのどれもが深刻そうな愁いを帯びた顔だ。


まるで聖者は世の中の悲しみを一身に背負っているかのごとく描かれている。


近年になって作られた映画に出てくるキリストも、みな同じような印象だ。




彼の肖像がはじめて描かれたのは、彼が死んで数百年経ってからだ。

もちろん実際に見た人が描いたわけではない。

作者の想像の産物だ。


そこにはギリシャ哲学以来の西洋人特有の深刻さが投影されているように思う。





僕は思う。

彼はとても愉快で、明るく美しい青年だったのではないかと。



もし僕が同時代の人間なら、深刻そうな青白い顔をした男の話を聞きに山に登ろうとは思わない。

あれだけ多くの人を惹きつけたのだから、大きな魅力に溢れていたに違いない。

さらにはユーモアに溢れた人だったように思う。


真理に触れた者なら、そこにあるのは笑いと限りない優しさだからだ。

その優しさは、弱き者が発する軟弱な優しさではなく、真理に反するものをことごとく粉砕する、力強い慈悲だ。





結局彼は殺されてしまう。


そんなキリストを死に追いやったのは、悪人でもなく、ずるがしこい権力者でもなく、善良な市民達だった。

しかも彼らは救世主を待ち望んでいたのだ。




それなのになぜキリストを殺したか。


そこには現代にも通じる、聖者や真理に対する偏見と誤解があると思う。






今日はクリスマスイブ。



歴史上類稀な、聖なる若者の事をじっくり考えてみたい。

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