かんながら

阿部敏郎の公式ブログです。

カテゴリ: ブッダの話

おはよう。 昨日、荘子のカラッポの船の話をしたね。 自我のない状態についてのたとえ話だ。 それじゃ、釈迦の場合はどんなだったんだろう。 以前「いまここ塾」でも一度話したけど、彼の超越性を彷彿とさせるエピソードを紹介しよう。 あると ... 続きを読む


おはよう。


昨日、荘子のカラッポの船の話をしたね。

自我のない状態についてのたとえ話だ。



それじゃ、釈迦の場合はどんなだったんだろう。

以前「いまここ塾」でも一度話したけど、彼の超越性を彷彿とさせるエピソードを紹介しよう。



あるとき、釈迦に反対する男が、彼の頬にツバを吐きかけた。

すると釈迦は、それをぬぐいながら冷静にこう言った。


「他に何か言いたい事はあるかい?」


男は予想に反した釈迦の反応に驚いて、その場を立ち去ってしまった。



少し時間が経過した。

弟子達は男の無礼な態度に憤懣やる方ないという顔をして釈迦に尋ねた。


「お釈迦様、彼は一言も言わずにあのような行為に及びましたが、何故他に言いたい事はあるかお尋ねになったのですか」

「さらには、何故お怒りにならないのですか」


釈迦はこう答えたと言う。

「あの行為はあの男の言葉だった。言葉にならない怒りを私に対して持っていたのだろう。何を言っても自分の怒りを表すような適切な言葉が見つからない時、人はそれを行為で表す。行為は言葉にならない感情を表す言葉だ」

「そして何故私が怒っていないかと問うが、お前達はいつの事を話しているのか。それはとうに終わってしまったことだ。そこに流れる川を見てごらん。すでにあの時とは違う水が流れている。私もすでにあの時の私ではない」



そうか、瞬間瞬間すべての現象は移り変わって、新しく生まれ続けているんだ。

それなのになぜ、終わってしまったことにいつまでもしがみついているのか。


そうやっている間にも、かけがえのない今が通り過ぎていく。


さ、またリフレッシュして、新しい今を新しい自分で生きていこう。



今日も新鮮な気持ちで生きられますように。




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もし自分の中から自分が抜け落ちて、 カラッポの自分が、 目の前の現実をただありのままに見ていたとしたら、 頭にくることなんか何もないんだろうな。 反対に相手も、 こちらの中身がカラッポで、 何も判断していないのがわかれば 反感を持つこ ... 続きを読む
もし自分の中から自分が抜け落ちて、

カラッポの自分が、

目の前の現実をただありのままに見ていたとしたら、

頭にくることなんか何もないんだろうな。




反対に相手も、

こちらの中身がカラッポで、

何も判断していないのがわかれば

反感を持つこともないんだろうな。





そういえば、荘子がこんなことを言っている。




もしあなたがボートを漕いでいるところに、

他のボートが無造作にぶつかってきたとする。

きっとあなたは怒るだろう。



でもそのボートがカラッポで誰も乗っていなかったら

きっとあなたは怒らないだろう



カラッポでいなさい



そうすれば、誰もあなたと争わない。





自我が消えれば、ハッピーライフハート




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おはよう。 また月曜日の朝だね。 憂鬱にならずに、一日一日をしっかり生きよう 昨日学生達に、これからの経済は与え合うという姿勢によって、より発展するだろうという話をしたからだろうか、今朝起きてすぐに大昔に見たディズニーの短編アニメを思い出 ... 続きを読む



おはよう。

また月曜日の朝だね。

憂鬱にならずに、一日一日をしっかり生きようニコニコ



昨日学生達に、これからの経済は与え合うという姿勢によって、より発展するだろうという話をしたからだろうか、今朝起きてすぐに大昔に見たディズニーの短編アニメを思い出した。



それは、ジョニー・アップルシードと呼ばれた男の物語。



この人は、西部開拓時代の実在の人物で、ある日神の啓示を受けて(アニメでは天使が登場する)、たくさんのりんごの種と、一つの鍋と、聖書だけを持って西へ西へと向かうんだ。


道すがら開拓者達にりんごの種や苗木を分けてあげたり、そこら中にりんごの苗木を植えて育てたり・・・


それは何の見返りも求めない、ただただ与えるだけの人生だった。



りんごは様々な調理法があり、また栄養価も高く、食糧難に悩む多くの人々の命を救ったという。




当時はまだいたるところに野獣猛獣が潜む命がけの旅だった。


白人に恨みを持つインディアンとの遭遇も頻繁にあったが、彼は人種を問わずにりんごの木を植えることを奨励し、また会う人ごとに聖書の教えを説いてまわったので、誰からも尊敬され感謝されたそうだ。



彼のメッセージは

「神はあなたの中にいる

神は深い愛であなたを見守っている」



決して動物を殺すことはなく、自然を愛して生きたそうだ。


こうやって書いていると、なんだか泣けてくるな。

いつの時代にも、真実を生きた人がいたんだなって。




その彼は過酷な労働の日々を繰り返すことで無数のりんご園を残し、旅に出て40年後に民家の玄関先で星を仰いで眠ったまま亡くなるんだけど、最後まで何の財産も持たず、たった一本のりんごの木の所有権も主張しなかったそうだ。


今でも彼によって作られた数万ヘクタールのりんご園が残っているという。




与える気持ちというのは「愛」のことで、21世紀は「愛」を基準にした文化が花開くことを、僕達みんなが目指すべきだと思う。


その時、この地上が天国になるのだろう。



それにはまず、自分自身が言葉や行為に注意を向け、愛に基づいた言動を選択していくことなのかもしれない。




そんな自分に少しでも近づきたいものだ。





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致知(ちち)って雑誌に載った僕のエッセイを見て、ぜひ講演をしてほしいと招いてくれた人がいるんだけど、それがびっくり、母家のまん前にあるKBC学園っていう専門学校の理事長さんたちだった。 こういうことってあるんだね。 家からも歩いて数分。 ルンル ... 続きを読む


致知(ちち)って雑誌に載った僕のエッセイを見て、ぜひ講演をしてほしいと招いてくれた人がいるんだけど、それがびっくり、母家のまん前にあるKBC学園っていう専門学校の理事長さんたちだった。

こういうことってあるんだね。

家からも歩いて数分。

ルンルンルン♪




昨夜講演をさせてもらったんだけど、その時大受けだった達磨(ダルマ)さんの話をしよう。




達磨はインドから中国へ仏教を伝えた人なんだけど、もともとインド小国の王子で、当時すでに有名な高僧だったんだ。



だから中国では皇帝や大臣や大思想家達が出迎えに行ったんだって。




そしたら向こうから変な男がやってくる。

着の身着のまま・・・そこまではいいが、なんと片方の草履を脱いで自分の頭にくくりつけて歩いてくる。



「なんだ、あの男は?!」

「完全にイカレているんじゃないか」




出迎えた者達に一様に動揺が走った。



長旅で高熱に侵されたのかもしれぬ。

あるいは何か深いわけがあるのかもしれぬ。




「ワシが達磨じゃ」


「・・・・・・・・」


みんなが唖然とする中、やっと皇帝が口を開いた。



「ようこそ・・・・しかしなんとも奇妙なり・・・なぜそなたは草履を頭に乗せておるのか」



そこにいた全員が、なんと答えるかを息を飲んで待っていると、達磨は一言こう答えた。




「ワシはただ、草履を頭に乗せておる」





話は以上だよニコニコ

この文章でうまく伝わったかな。




なんでも頭で解釈しようとする人間達への一喝だった。

仏の教えは理屈や理論を超えている。


頭に草履を乗せていることくらいの事を、あるがままに受け容れる事ができない者達に、ワシの深遠なる教えが理解できるものかという意味なんだ。




え?あんまり受けなかった?

昨日は受けたんだけどなァ。





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誰の前でも同じような自分でいたいね。 だってみんな魂は対等なんだから。 社長さんに対しても掃除婦さんに対しても、同じ温かみの笑顔で接したいね。 昔、小林一茶が殿様の前に出た時も、そんな心境で相手にへつらうことなく対等に接したそうだ。 そし ... 続きを読む


誰の前でも同じような自分でいたいね。

だってみんな魂は対等なんだから。

社長さんに対しても掃除婦さんに対しても、同じ温かみの笑顔で接したいね。



昔、小林一茶が殿様の前に出た時も、そんな心境で相手にへつらうことなく対等に接したそうだ。

そして残した一句が


鶯(うぐいす)や 御前に出ても 同じ声



昨日のいまここ塾でどうしても出てこなかったこの一句



好きだなァ





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やれやれ、ちょっと一休み。 一休みにブログ覗くんだから、けっこうはまったというか生活の一部になったというか。 昨日のいまここ塾では、フクロウと不死鳥の話をしたんだよ。 「燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや」 これは大昔、司馬遷という人が編 ... 続きを読む
やれやれ、ちょっと一休み。

一休みにブログ覗くんだから、けっこうはまったというか生活の一部になったというか。




昨日のいまここ塾では、フクロウと不死鳥の話をしたんだよ。


「燕雀いづくんぞ鴻鵠の志を知らんや」


これは大昔、司馬遷という人が編纂した史記に出てくる一文。

たとえば小さな仕事にありついた男が、そこに参入しようとした他の人間を、自分の仕事を奪う気だなって必死に防御するんだけど、その人はそんな利益のためじゃなく、もっと大きな志で生きているっていう話。




実はあまり知られていないんだけど、この話よりさらに200年ほど前に、荘子が同じ様な話をしているんだ。


おそらく司馬遷は、その話をもとにして書いたんじゃないかって思う。


しかし荘子のそれは、史記の中の話よりもはるかに深い。


3次元と4次元の違いがある。



その話を昨日したけど、していて面白かったからここにも書きたいんだけど、時間が・・・ぐすん



僕たちにとって大切なメッセージだから、そのうち必ず書くからね。



「延命十句観音経」の続きもね。





その前に、物置の中を掃除しなきゃ。




じゃ、またニコニコ



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さ、それじゃ朝の話。 「ワシが蝶々の夢を見たのか、それとも蝶々がワシの夢を見ているのか・・・」 答えは 「どちらも自分じゃない」 荘子である自分にしろ、蝶々である自分にしろ、どちらも夢のようなもの。 しかし、その夢を見ている者が ... 続きを読む



さ、それじゃ朝の話。

「ワシが蝶々の夢を見たのか、それとも蝶々がワシの夢を見ているのか・・・」




答えは
「どちらも自分じゃない」




荘子である自分にしろ、蝶々である自分にしろ、どちらも夢のようなもの。

しかし、その夢を見ている者がいる。

その夢の自分を認識している者がいる。


あえて言えば、それが「自分」だ。



話についてきた?





消し去って、消し去って、消し去って・・・・最後に残るもの。

それは言葉を超えている。

それは体感するしかない。



ただし、その体感はたいしたモンじゃない。


とかく人間は何でも権威づけして、ことを難しくしてしまうけど、その体感は実は常に我々が自分の存在の底辺で感じ続けているものなんだ。

それがあまりにもあたりまえすぎて、いちいち自覚しないだけのこと。



それを悟った人が「私は悟った」と自慢しないのは、自慢するようなことではないからだ。




「あなたという人はこういう人だ」などと規定できるものは何一つない。

規定できるようなものはあなたに属さない。




あなたとは形なきもの。



無限に広がる大いなる存在そのものなのだから。



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